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SmaSTATION特別企画・ニッポンを知ろう!『落語〜上方篇 密着!落語家 笑福亭鶴瓶』
戦国時代に誕生以来、現在まで400年以上の歴史を誇る上方落語。長年にわたり日本の伝統文化として隆盛を誇ってきた上方落語の灯りが、第二次世界大戦後、一度、消えかけたことがありました。そんな上方落語の最大のピンチを救ったのは、後に「上方四天王」と呼ばれ、昭和の上方落語黄金期を支えた4人の天才でした。番組では、上方落語の歴史を紐解きながら、今夜のゲスト・笑福亭鶴瓶師匠が高座に上がるまでの舞台裏のもようをご紹介します。
「落語」の誕生
落語が誕生したのは、16世紀後半の戦国時代。織田信長の側近・野間藤六と、豊臣秀吉の側近・曽呂利新左衛門が、とんちを利かせた笑い話を伝えたのが始まりといわれています。落語は将軍や殿様を楽しませる手段のひとつとして誕生したのです。
その落語を民衆に伝えたのは、女性が極楽往生できるお寺としてあの清少納言や和泉式部ともゆかりが深い京都誓願寺のお坊さん・安楽庵策伝和尚。仏の教えをわかりやすく伝える手段として、和尚は必ず最後にオチのついた、説法を考案したのです。この説法は、「落語」の原点といわれ、民衆の生活に浸透させるきっかけとなりました。

その後、江戸時代に入り、落語家の第一号が誕生します。第四代将軍・徳川家綱の時代、京都に登場した露の五郎兵衛。落語で生計をたてるようになった最初の落語家でした。少し遅れて、大阪でも落語家が誕生します。米沢彦八です。彦八は、落語のほかにも、当時の歌舞伎役者をモノマネしたり、小道具を使って動きを交えて街頭で滑稽な話を演じました。芸達者な男として知られ、コントの元祖を作り出した人物としても知られています。
笑わせてナンボ、の上方落語
京都の露の五郎兵衛、大阪の米沢彦八――このふたりの後を追うべく、京都と大阪では、落語家が急増しました。それから数年後、江戸の浅草寺で、大阪生まれの鹿野武左衛門が落語を披露。それが人気となり、江戸でも落語が楽しまれることとなりました。江戸と上方。このふたつの土地で、次第に庶民の文化として、発展していく落語でしたが、当時、双方の寄席ではシステムにある違いがありました。それが「集金システム」。江戸の寄席では、映画館のように始めに入口で入場料をもらうシステムが一般的だったのに対し、上方の寄席では、最後に集金人が入場料を集めに回るというシステムでした。そのため上方では、途中で客が帰らぬよう、最後まで客をひきつけておく必要があったのです。このシステムから生まれたのが、いまも上方の落語家に共通する「笑わせてナンボ」の芸風。「まくら」と呼ばれる本題に入る前の短い話から、「オチ」または「下げ」と呼ばれるしゃれや語呂合わせなどで話の終わりを締めくくる部分にいたるまで、とにかく上方の落語は、笑わせたもの勝ち。まさに、笑わせてナンボ、が大きな特徴なのです。それに対して江戸では、予め客からお金をもらっている分、客に納得してもらえるよう、じっくりと聞かせる芸風が主流となったのです。

江戸時代末期、上方落語は、ふたりの男の活躍により、一大ブームを巻き起こすことになります。桂米朝、三枝、ざこばに代表される桂派の開祖、初代桂文枝。そして、鶴瓶の師匠、六代目松鶴の初代にあたる笑福亭の大名跡、初代笑福亭松鶴。このふたりの活躍に憧れ、多くの若者が落語を志すことに。そのため、江戸時代まで70人ほどだった上方の落語家は、明治に入るころには、142人にまで急増。多くの弟子たちにより「桂」「笑福亭」は巨大一門を形成することとなり、上方落語は、第一次黄金期を迎えたのです。そしてこの上方落語の黄金期を支えたのが、大阪の寄席の拠点、法善寺横丁に作られた「紅梅亭」。常に師匠クラスが出演する一流の寄席として観客の人気も高く、娯楽の殿堂として親しまれました。うどん一杯2銭の時代に入場料は15銭。いまの金額に換算すると約4000円。当時の落語家にとっては、まさに憧れの舞台。この寄席の高座に上がることが、一流落語家の証でした。
天才・初代桂春団治
大正時代に入り、上方落語はひとりの天才の出現により、第二次黄金期を迎えます。初代桂春団治です。春団治は、当時男性が楽しむものであった落語を女性に目を向けさせた最初の落語家で、「後家殺し」の異名をとるほど。春団治の噺を聞きに、寄席には多くの女性ファンが押し寄せたといいます。初代春団治は、1日に、4つから5つもの寄席を掛け持ち。休みなく高座に上がり続け、時代の寵児となりました。
当時の寄席は、昼の部と夜の部にわかれ、ひと公演、3時間半から4時間。その間、一回の入場料でずっと落語を楽しむことができました。現在も大阪の寄席(なんばグランド花月など)では、昼夜2回公演、ひと公演3時間半のプログラムと、当時と全く同じシステムがとられています。

初代桂春団治は、人気者のため、どこの寄席の高座に上がっても、最後の出番。いわゆるトリを務めたそうです。この「トリ」という言葉、これは落語からきた言葉で、現在でも最後に出番を務める人をさす言葉として落語以外でも幅広く使われていますが、その語源は、最後の出演者が取り分を決めていたため。当時の寄席では、最後の出番の人が、その日の寄席の収益の全てを一旦受け取り、前座の落語家の取り分を決め、分配していました。つまり、ギャラの取り分を決める人ということから、最後に高座を締めくくる人をトリと呼ぶようになったのです。
「漫才」の出現
大正から昭和にわたり、初代桂春団治によって巻き起こった「上方落語第二時黄金期」。しかしそれは、ある出来事によって、衰退を余儀なくされました。それは、「漫才」の出現。
エンタツ・アチャコ、ワカナ・一郎らに代表される漫才が、落語に取って代わり、新しい笑いとして民衆の支持を得たのです。また、落語は、漫才に比べ修行期間が長いことや、歌舞伎などとは違い世襲制をとらないことから、後継者不足に陥り、衰退の一途をたどっていきました。明治・大正には200名近くいた上方の落語家は、第二次世界大戦が終わる頃には、なんと、わずか10数名にまで激減してしまったのです。
上方落語を救った4人の若者
しかしそんな上方落語の危機的状況に、救いの神ともいうべき4人の若者が、上方落語の門を叩いたのです。後に上方四天王と呼ばれることとなる4人でした。


三代目桂米朝。大正14年中国・大連に4人兄弟の次男として生まれた三代目桂米朝は、幼い頃から大の落語好きで、学生時代、落語を独学で研究。どうしてもプロになりたいと仕事を辞め、昭和22年、四代目桂米團治に入門。


五代目桂文枝。昭和5年大阪市に生まれた五代目桂文枝は、終戦後、一時大阪市交通局に就職しましたが、昭和22年、18歳で四代目桂文枝に入門。


三代目桂春団治。昭和5年、二代目桂春団治の長男として生まれ、父の巡業に荷物もちとして加わるうちに、昭和22年、前座デビュー。その後、正式に、父・二代目春団治に入門。


そして、鶴瓶の師匠、六代目笑福亭松鶴。大正7年、五代目松鶴の次男として生まれ、父のもとで前座デビュー。昭和21年、正式に五代目松鶴に入門。


戦後、ほぼ時を同じくして上方落語の門を叩いた4人の若者は、互いをライバルにしのぎを削ることで実力を伸ばし、昭和30年代、一世を風靡。彼らの活躍により、一時、10数人にまで落ち込んだ上方落語界は、第三時黄金期を迎えることとなりました。しかし、その人気の裏には、血のにじむような、並々ならぬ苦労があったといいます。彼らが苦労を背負うこととなった理由――それは、入門してからわずか3年あまりの間に、なんと、4人の師匠のうち3人が相次いで亡くなってしまったのです。残っているのは70代のベテランばかり。そのため、年齢は20代前半、キャリアは三年ほどの若手4人が中心となって上方落語界を背負って立たなければならなくなったのです。

そこで4人は、我先にと、当時数人残っていたベテランのもとに出かけ、時には東京の落語家の下にまで足を運び、ネタの継承に必死になって取り組みました。寝ても覚めても、落語の日々。4人は、上方の目の肥えたファンの厳しいヤジにもめげることなく、上方落語を守るべく必死になって日々、精進を続けたといいます。
さらに、「少しでも寄席に客を取り戻したい」と、お寺や町の公民館など、どんな小さなところでも落語を披露。上方だけにとどまらず、全国各地を飛び回り、ファン獲得に努めたのです。そうした地道な努力と、ラジオやテレビの普及により、入門から10年、米朝、文枝、春団治、松鶴の4人は、当代きっての人気者となり、後に、「上方落語四天王」と呼ばれ、上方落語の歴史にその名を刻んだのです。「四天王」の活躍は、笑福亭仁鶴、桂三枝など多くの弟子たちがスターへと上る道筋となり、上方落語は、昭和30年から40年にかけて、第三次黄金期を迎えることとなりました。
桂文珍、笑福亭鶴瓶、桂南光の落語会に密着
先日、四天王の弟子や孫弟子にあたる、桂文珍、笑福亭鶴瓶、桂南光による落語会が、大阪で開かれました。ことしで2回目となるこのイベント。チケット即完売の大人気。客層も、40代や50代の落語ファンに混じって、20代の若者の姿も多く見られました。


鶴瓶が演じたのは「愛宕山」。芸者遊びの宴席を盛り上げる司会役を意味する「たいこもち」の一八と茂八が大阪を追われ、京都の祇園で、ひいきのお金持ちの旦那のお供で愛宕山に登ることになりました。その山頂で土器投げをして遊ぶ旦那は、それでは飽き足らず、小判20枚を投げ出します。小判は拾ったものに全てあげると言い出した旦那に対し、一八と茂八がとった行動を滑稽に描いたこの噺は、土器投げ、小判投げ、番傘を使ったダイナミックな動きが見どころの、落語の中でも有名な噺のひとつ。三代目米朝も得意とする噺のひとつですが、師匠から教わった古典落語を完全コピーで真似、芸を受け継ぐものもいれば、鶴瓶のように筋だけは継承しつつも、噺の設定を変えるなどネタを練り直し自分流にアレンジを加える落語家もいます。三代目米朝と鶴瓶の「愛宕山」を比べてみると、米朝の愛宕山は、旦那と芸者が山を上る際、山道に咲く「菜の花」や「蝶」が登場するなど設定が春なのに対し、鶴瓶の愛宕山は「秋晴れの青空」や「紅葉がきれい」というように、設定が秋なのです。さらに、米朝が演じる愛宕山の「たいこもち」のふたりは、仕事さながらに、口八丁手八丁で、ひいきの旦那をヨイショしながら山を登るのに対し、鶴瓶演じる「たいこもち」は、全く旦那をヨイショしません。このように主人公の性格ひとつをとっても、演ずる人によって全く違うのです。落語にはこうした古典の他にも、最初から現代風に噺を作る、創作落語があります。

笑福亭仁鶴師匠
「演じ手によって雰囲気は変わってきますわな。一緒だったら面白くないしひとりでいいでしょ。それぞれに味があってそれぞれにひいきがつきなさるでしょ。」



桂三枝師匠
「やっぱり鶴瓶さんも、テレビといういまの時代にいきてる訳ですから。鶴瓶さんの場合、鶴瓶さんそのものが落語だし、鶴瓶さんが言ってる事が落語だし、生き方そのものが落語だし、たまたま自分の仕事をするメインのところがテレビだったそれだけのことだと思います。」


笑福亭仁鶴師匠
「才能のありそうな人が多いね、増えてきたね、笑いに対してね。それがお客さんが増える事につながればいいな。でも商売ですから、あまやかしてもこまりますから、勝手にこっちから強くなっていかないとな。アマチュアじゃないんですから。不景気なのは自分たちが不景気なんだから、自分達が面白い事やっていれば自然に景気があがってくでしょう。」


桂三枝師匠
「香取サンが想像している以上に、落語は面白くて奥が深いと思います。1度はまるとこんな面白いものないとおもうんですけど、はまるまでちょっと時間かかるかもしれませんが、辛抱いただいて色んなものを見てみると良いと思います。是非落語会においで下さい。」


師匠もこうおしゃっているので、香取編集長も、一度、寄席に足を運んで落語を楽しんでみませんか?
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