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ニッポンを知ろう!『芸者&海を渡った伝説の芸者・中村喜春』
ことし12月に公開されるスティーブン・スピルバーグ製作の映画「SAYURI」。監督は「シカゴ」のロブ・マーシャル、チャン・ツィイー、ミシェル・ヨー、コン・リー、そして渡辺謙、役所広司などアジアを代表する豪華キャストが集結したこの話題作の題材となったのが「芸者」です。貧しさゆえに置屋に売られた少女のさゆりが過酷な運命に翻弄されながらも、芸に精進し祇園一の芸者へと上り詰める一方で、ひとりの男性への愛をつらぬくという昭和初期、京都の花街を舞台に実在したある芸者の哀しくも温かい恋物語です。その「SAYURI」とほぼ同じ昭和初期、東京・新橋で伝説となったひとりの芸者が存在しました。彼女の名は中村喜春。彼女こそ、約400年の歴史上、初めてお座敷にあることを取り入れた芸者です。芸者衆の中でその名を知らないものはいないといわれた喜春は絶頂期に突然芸者を引退しました。いったい彼女に何が起きたのでしょうか。誤って伝えられていた日本の誇る伝統文化・芸者の真実と、喜春の生涯に迫ります。
芸者のはじまり
芸者はいつ生まれたのでしょうか。歌や踊りで座を盛り上げる芸者が女性の職業として始めて歴史に登場したのは平安時代。それが、当時流行していた歌や踊りを披露する遊女・白拍子(しらびょうし)でした。かの源義経の恋人、静御前も白拍子で、スイカンにエボシ、という男装で舞い、一世を風靡したのです。やがて戦乱の世となり、白拍子は廃れましたが、再び平和が訪れた江戸時代、歌や踊りで客を楽しませる女性が現れました。京都・八坂神社近くの東山地区。神社・仏閣にお参りする人にお茶やお菓子を振舞う水茶屋(みずぢゃや)で、料理を運んでいた娘たちが、いつしか当時流行り始めた歌舞伎を真似て、三味線や踊りを披露するようになったのです。この風習はまもなく江戸にも伝わり、「踊り子」と呼ばれるようになりました。この「踊り子」こそが芸者の始まりと言われているのです。そんな中、ひとりの人気踊り子が登場します。それが、江戸・吉原の(遊郭)扇屋で活躍していた歌扇(かせん)です。彼女は踊りや歌、そして三味線を得意とし、さらには巧みな話術で座を盛り上げ、あっという間に人気者になりました。扇屋歌扇の影響で、吉原をはじめ、様々な花街で芸に優れた女性を置くようになり、これがいまの芸者システムへと発展していくこととなるのです。
「Geisha」のイメージ
外国人の日本に対するイメージとしてよく登場する「ゲイシャ」。このイメージは一体いつ頃、何がキッカケで定着したのでしょうか。実は海外における芸者のイメージを決定付けた芸者たちがいました。それが、江戸幕府が始めて参加した、1867年のパリ万博に参加した、3人の柳橋芸者です。このとき日本はパビリオンとして「茶屋」を出展。芸者たちはキセルを吸ったり、手まりをついてみせました。このパビリオンはパリ万博でも最も人気の高いもののひとつとなり、初めて触れる生の日本文化はヨーロッパの人々に強烈な印象を与えたのです。まもなくフランスを中心に、「ジャポニズム」と呼ばれる日本ブームが到来。浮世絵人気などもあり、「日本といえばフジヤマ・ゲイシャ」というイメージが定着したのです。そしてヨーロッパでのゲイシャ人気を確実なものにしたのがマダム貞奴(さだやっこ)。1900年のパリ万博で川上音二郎と共に行った公演が、折からの日本ブームと相まって大人気を博しました。芸者・貞奴はバッキンガム宮殿で御前公演を実現させ、フランスでは大統領の前でも舞を披露し、勲章も受けました。貞奴の人気はすさまじく、「考える人」などで知られる彫刻家ロダンからも「モデルになってほしい」と話が持ちかけられたほどでした。帰国後、貞奴は日本人初の「女優」に転身しました。女優第一号は、芸者出身者だったのです。

また、芸者の中には日本の歴史を動かしたともいえる人物も…。「新選組!」にも登場した桂小五郎の恋人・幾松(いくまつ)。幕末の志士として新撰組と対峙した桂小五郎の恋人で、後に妻となった幾松が、桂の窮地を幾度となく救ったことはあまりにも有名です。同じく幕末の志士にして初代内閣総理大臣となった伊藤博文が、下関で長州の刺客に追われ、必死の思いで逃げていたところを救ったのがお梅。後に博文は恩に報いるため、身売りされ、芸者となったお梅を身請けし、結婚しました。日本初のファースト・レディーとなったのも芸者だったのです。ちなみに伊藤博文は芸者好きで、近藤勇の娘も愛人のひとりでした。幕末の黒船来航時、初代アメリカ領事として下田にやってきたハリスを下田に足止めさせるために幕府の要請で派遣されたのが、当時下田一の売れっ子芸者だった、お吉(きち)。彼女を初めとする女たちの働きもあって、後にハリスは日本文化を好み、敬意を払うようになったといわれています。
そして日露戦争当時総理大臣を務めた桂太郎もまた、芸者に救われたひとり。美人で名高かったお鯉は、当時の総理大臣・山縣有朋(ヤマガタアリトモ)の紹介で陸軍大臣だった桂と知り合い、ほどなく恋仲に。桂が総理大臣となってもお鯉はそばに寄り添い続け、日露戦争中、疲れきった桂を陰で支えたといわれています。そのため当時の総理官邸にはお鯉専用の部屋まで作られたほどでした。こうした芸者たちの存在なくして、いまの日本はなかったかもしれないのです。
芸者の世界
そもそも芸者とは、唄や踊り、楽器などの芸で宴に興を添え、盛り上げることを仕事とする女性の事。関東では一人前に仕事をこなす女性のことを芸者、まだ修行中で、半人前の女性のことを半玉と呼びます。一方、京都など関西では関東でいう芸者のことを芸妓、半玉のことを舞妓、と呼んでいます。芸者のほとんどは「置屋」もしくは「屋形」と呼ばれる店に属し、そこから「茶屋」や「料亭」などお座敷に派遣される仕組みになっています。置屋とはいわば芸能プロダクションのようなもの。芸者自ら仕事をとることはなく、すべて置屋のおかみを通して仕事が決定するのです。
京都では全ての舞妓、そして芸妓の一部が置屋で共同生活を送っています。こうした置屋や茶屋が集まった街が「花街」です。いまも京都には祇園や先斗町など5つの花街があり、東京にも浅草や神楽坂、赤坂など6つの花街があります。芸者を座敷に上げたい時は、馴染みの茶屋があれば、そこに連絡し、日時と人数、何人の芸者を呼びたいのかを伝えるだけ。あとは御茶屋の主人が置屋に連絡して、全てを手配してくれるのです。では通常お座敷には何人の芸者を呼ぶのでしょうか。芸者には「立方(たちかた)」と呼ばれる舞を主にする人と、「地方(じかた)」と呼ばれる唄や三味線を専門にする人がいます。そのため歌や踊りを楽しむためには、最低でもこのふたりは必要。もちろん、何人でも呼ぶことは可能です。お座敷ではお客が座についたころ、芸者はやってきます。あとは食事をしながら、お酌などもしてもらい、歌や踊りを楽しめばいいのです。

お座敷では、お客が「慎吾君」や「崔さん」などと名前で呼ばれることはありません。芸者は客のことを「おとうさん」「おにいさん」などと呼ぶのです。これは隣のお座敷に誰がいるのか、といったことが廊下にいる人からも分からないようにする、花街特有の配慮なのです。支払いは「ツケ」が原則。料理代から花代、(芸者代)ご祝儀から足代にいたるまで、すべて後日、お茶屋から請求がくることになっています。そのためお座敷には財布を持たずに来る常連もいるほど。「一見さんお断り」の所以はここにあるのです。とはいうものの気になるのは料金。時間や料理、そして置屋によってもちろん変わってくるのですが、もし香取編集長と崔監督が夕方6時から8時までの2時間、地方ひとりと立ち方ひとりの合わせてふたりを呼び、食事をしつつ、軽くお酒も楽しんだとしたら、ひとりあたりおよそ5万円(地域・店によって値段は異なりますので店舗に御確認ください。)かかります。ちなみにどんな人気芸者を指名して呼ぼうとも、値段は変わりません。
芸者制度は遊郭の中で形作られていったものの、当時から、いわゆる体を売る「娼妓」(しょうぎ)」とはきっちり区別されています。例えば着物の裾の持ち方。太夫など娼妓が右手でお引きずりの裾をもって歩くのに対し、芸者は左手。これは左で裾をもつと、あわせと逆になり、着物の中に手が入れられなくなるため。また、足の美しさをみせるため、娼妓は決して足袋ははきませんでしたが、芸者にとって足袋は必携なのです。庶民にとっては縁遠い世界と思われがちな芸者の世界ですが、実は私たちの生活にも、芸者の世界から生まれたものも数多くあります。例えば、「独立する」という意味で使う「一本立ち」。この「一本」とは、時計が無かった時代にお座敷で時間を計るのに使っていた線香を指します。線香まるまる1本が燃え尽きるまでが基本料金。そこまでお金が取れるようになれば一人前ということから、一本立ちという言葉は生まれたのです。そして「乙な趣味をお持ちですね、」などというときに使う「おつ」。粋である、美しい、という意味で使われるこの言葉は、芸者が弾く三味線から生まれました。三味線の高い音を甲、低い音を乙、と呼ぶことから、心に響く渋いもの、という意味で使われるようになったのです。
伝説の芸者・中村喜春
昭和初期、特別、芸事に秀でたわけでもなく、誰もが認める絶世の美女というわけでもなく、東京・新橋の花街を駆け上がった芸者がいました。彼女の名前は中村喜春。当時、1200人いたという新橋の芸者の中で、彼女が初めてお座敷に取り入れたものがあります。それは「英語」。実は彼女、唯一英語が話せる芸者として昭和初期の新橋では知らないものはいない存在だったのです。大正2年 医者の娘として東京銀座に生まれた喜春は、隣にある稽古場を覗き見しているうち踊りに興味を持ち、3歳のころより稽古を始めました。16歳になった喜春は当時としては珍しく「自ら芸者になりたい」と新橋の置屋に入り、芸者となりました。当時のお客さんは政官財界などのお偉方が主で、普段は聞けない貴重な話ばかりが飛び交っていました。その内容は、次の総理大臣は誰になるのか、といった政府内部の話や、戦争へ向け、雲行きが怪しくなっていた国際情勢など多岐に渡っていました。

そんな中、ある問題が生じました。第一次世界大戦後の好景気のあおりで、座敷に外国人の客が増えるようになったのです。それらの客にはもちろん通訳はいましたが、芸者の芸事をきちんと解説出来る人は皆無だったのです。そこで喜春は、せめて踊りの内容だけでも英語で伝えたいと、英語学校へ通い始めました。しかし当時の芸者は、昼はお稽古事、夜はお座敷とただでさえ大忙し。喜春は、朝、英語学校に通い、昼はお稽古事、夜はお座敷と、ほとんど寝ずに勉強と仕事をこなし、英語力をアップさせていったのです。こうして喜春は、英語が話せる唯一の芸者として、新橋で知らないものはいない存在となったのです。喜春は、ベーブ・ルースや、大の親日家であるチャールズ・チャップリン、新聞王ウィリアム・ハースト、詩人ジャン・コクトーなど海外からの数々の著名人を接待しました。コクトーは喜春を「ハッピースプリング」と呼び可愛がり、「喜春は芸者になりきろうとしない、ハリウッドを夢見る芸者」と後に書いています。いまでは外国人のお客さんが来てもきちんとした応対が出来るようになっているそうですが、喜春こそまさに先駆者であったのです。中村喜春をはじめとする芸者たちは、欧米人にとってそれまで見たことのない、新しい美しさでした。献身的かつ心細やかで、常に控えめな芸者の姿が彼らの目には新鮮に映ったのです。
芸者としてのプライド
英語が話せる芸者として重宝がられた喜春でしたが、芸者の世界から引退を決意させる事件が起こります。喜春27歳、突如、警視庁外事課から出頭命令を突きつけられたのです。実はあるアメリカ人がスパイ容疑でつかまり、家宅捜査をしたところ、アパートから出てきた写真が喜春のものではないかと疑われたのです。その写真は首から下だけが写っているいわゆるヌード写真。見るからに豊満な女性で、痩せていた喜春のものではないとひと目で分かるものでした。しかしアメリカ人スパイが質問に一切答えないため、英語が話せる喜春も共謀している可能性があるとして出頭を命じられたのです。「こんな写真を撮らせるといくらもらえるんだ?」。その取り調べで喜春の心はズタズタに引き裂かれました。 しかし喜春は負けてはいませんでした。芸者で培った人脈を使い、こう切り出したのです。「まず首相官邸に電話をして総理大臣の米内(よない)さまに、いま、新橋の喜春という芸者がここに来ていますが、この人間は外国人の前で裸で写真を撮らせてお金をもらうような人間か聞いてみてちょうだい!!あと外務大臣の有田様にも同じことを聞いてみてよ!!」と。これには担当者もさすがにたじろぎ、態度を一変させたそうです。こうした体験を経て、喜春は芸者を続けて行く以上、このような思いを何度もすることになるだろう、と思い、芸者の世界から身を引くことを決意。昭和31年、アメリカ・ニューヨークへと渡りました。喜春、42歳のことでした。

一体何故、彼女は渡米を決意したのでしょうか。それは、芸者を含めた日本の文化を、多くのアメリカ人に正しく知ってもらいたい、という思いからでした。そこで喜春がまずした事は、どこにでも和装、つまり着物姿で出掛けることでした。和装は日本人である自分の誇りであり、様々な人種がいるニューヨークでは、日本人として自信を持って生活することが大事だと考えたのです。その後、日本製品の展示会などで、ショーモデルを努め、生計をたてていた彼女。優雅な身振りで商品の説明をする彼女は、アメリカ人の間でたちまち人気者になりました。

そんな中、喜春に思わぬ誘いの声がかかりました。テキサスの大学で日本文化に関する講義をして欲しいというのです。喜春は、早速テキサスに移住。東洋哲学と、日本音楽の講義を受け持つことになりました。東洋哲学の授業で受け持ったのは、俳句の解説。音楽の講義では、オペラ「蝶々夫人」の解説をしました。蝶々夫人とは、イタリアの作曲家プッチーニが日本を舞台に書き上げた作品。日本の三味線音楽や、「かっぽれ」などが織り込まれていますが、当時のアメリカには、正確な解釈を講義できる人はほとんどいなかったのです。喜春は三味線や唄を実際に演奏して見せるという講義を行ったところ、直ちに高い評価を得ることとなったのです。喜春はその後、アトランタ、マイアミなどの大学でも講義を受け持つことになりました。また喜春は、ボランティア活動にも精を出しています。こうしていまでは、芸者が日本文化としてしっかりと認識されるまでになったのです。その後も、アメリカで精力的に正しい日本文化を伝え続けた中村喜春。その活動は実に半世紀にも及び、2004年1月5日、ニューヨーク・クィーンズにある自宅で、彼女は老衰のためこの世を去りました。享年90でした。彼女の訃報はニューヨークタイムズやニューズウィークなどを通してアメリカ中で報道されました。中村喜春にはいつもこんな質問が投げかけられていたそうです。「芸者って、本当はどんなもの?」。それに対して彼女はこう答えています。「芸者とはふたつの漢字から出来ています。『者』とはパーソンのこと、『芸』とはアート――つまり、芸術で人を楽しませる人のことです」。そしてこう付け加えます。「他に質問はありませんか?できればセックスのお話以外で」。日本文化を誰よりも愛し、伝え続けることが宿命とまで語っていた芸者・中村喜春。彼女を突き動かしたものとは、芸者としての誇り、日本人としての誇りだったのです。
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