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いよいよ物語も佳境に入ってきた香取編集長主演のNHK大河ドラマ「新選組!」。その「新選組!」には、藤堂平助役で中村勘太郎が、滝本捨助役で中村獅童が出演しています。昨年の「武蔵」でも、先日11代目を襲名したばかりの市川海老蔵が主役を務めた他、アカデミー賞にノミネートされ話題をさらった映画「ラストサムライ」では中村七之助が天皇という大役を務めました。彼らに共通するものといえば「歌舞伎」。日本が世界に誇るべき伝統文化であり、海外の映画やミュージカルにまで多大な影響を与えた歌舞伎の魅力と知られざる真実に迫りました。
 現在も年間250万人もの動員を誇り、全国における年間興行収入は実に220億円。海外からも年間10万人が訪れ、さらにニューヨーク、ロンドンなど世界各地で公演が行われるなど、日本を代表する芸術となっている歌舞伎。歌舞伎の歴史は、徳川家康が江戸幕府を開いた1603年にまで遡ります。出雲の鍛冶屋に生まれた女性・阿国が、京都に上り四条河原で舞った「かぶき踊」がその始まりとされています。男装の麗人、阿国の奔放な踊りは、戦国時代が終わり、平和に酔いしれていた民衆の心をとらえ、瞬く間に大人気を博したのです。この阿国の「歌舞伎」踊りは風紀を乱すといった理由で幕府の取締りを受けたこともありましたが、阿国登場からおよそ20年、歌舞伎はある2人の天才の登場によって急速に発展します。その2人とは、江戸歌舞伎の基礎を築いた人物・市川團十郎と、上方歌舞伎を完成させた阪田藤十郎です。

 江戸で活躍した初代市川團十郎は、正義のヒーローが敵役をやっつける、といったわかりやすく華やかな舞台を作り上げました。いまや歌舞伎の代名詞となっている「見得」や「にらみ」を考え出したのも彼。このような華やかで線の太い舞台のことを「荒事」と呼び、有名な「勧進帳」などがこの代表です。一方、しっとりと艶やかな「和事」と呼ばれる上方歌舞伎を完成させた坂田藤十郎は、「曽根崎心中」などで知られる近松門左衛門と組み、上方歌舞伎でヒット作を連発しました。

 東西2人の天才の登場で歌舞伎人気は不動のものとなりましたが、中でも團十郎の人気はすさまじく、江戸の人々は彼を神の化身、「現人神」とまで呼び、「團十郎に睨まれると1年間風邪をひかない」「團十郎の錦絵を入り口に張っておくと天然痘にならない」とまで信じていたのです。

 多くの人に楽しまれ、様々な進化を遂げながら高い人気を誇ってきた、ニッポンの伝統芸能「歌舞伎」。しかし、その歌舞伎の歴史が断絶の危機を迎えたことがありました。そのきっかけは、第二次世界大戦でした。敗戦後、日本を占領統治したGHQは、歌舞伎を危険な思想をあおるものだと解釈したのです。「忠臣蔵」に代表されるように、歌舞伎ではたびたび、忠誠心やあだ討ち・復讐といった、日本独特の封建主義的な考えが美しいものとして描かれています。これに対し、GHQは、戦前の日本に戻ってしまうのではないか、と懸念し、歌舞伎の上演を一方的に禁止にしてしまったのです。しかし、歌舞伎は一人の人物によって救われました。その人物の名はフォービアン・バワーズ。GHQマッカーサーの副官として、来日したアメリカ人です。実はバワーズは以前日本に滞在していたことがあり、そのとき、観光に出て、お寺と間違え、歌舞伎座に入ってしまったのでした。そこで彼が目にしたのが、「仮名手本忠臣蔵」。言葉を超えた歌舞伎の圧倒的な美しさに、バワーズはすっかり魅せられてしまったのです。

 バワーズは、歌舞伎を救うためにGHQスタッフを月に一度歌舞伎座に呼び、彼らだけのために歌舞伎を演じさせました。言葉がわからないスタッフのために、英語の解説も行いました。さらに、GHQの検閲担当者を、ホームパーティーとして自宅に招き、その場に歌舞伎役者も呼んで、歌舞伎という芸術を理解させようとしたのです。

 そんな努力にもかかわらず遅々として進まない、歌舞伎の開放。そこでバワーズはマッカーサーの副官、という地位をあっさりと捨て、GHQを辞職。歌舞伎復興に専念したのです。このときバワーズの収入は半額以下になったといいます。地道な努力を始めて1年以上が経った1947年11月、ついにバワーズは、すべての歌舞伎演目を復活させることに成功しました。歌舞伎関係者の間では、歌舞伎の危機を救った恩人としていまなお語り継がれているフォービアン・バワーズ氏。彼は、これ以降もアメリカ公演での通訳を務めるなど、海外での歌舞伎文化浸透に大きく貢献。そして1999年、この世を去りました。日本の誇る伝統文化、歌舞伎――しかしその発展の影には日本人だけでなく、歌舞伎を愛する人々の努力があったのです。
 江戸時代、凄まじい人気を誇った初代市川團十郎の現代における末裔が、12代團十郎の息子で、元新之助・11代市川海老蔵。歌舞伎を作り上げた初代團十郎の直系中の直系である海老蔵こそ、歌舞伎界の超エリートなのです。

 名門・市川團十郎家以外にも、歌舞伎界には様々な名門家系が存在します。まずは、初代團十郎の弟子筋で、2代目團十郎の時代には團十郎と人気を2分したといわれている初代松本幸四郎。市川染五郎、松たか子の先祖にあたる人物です。初代松本幸四郎は荒事を得意とし、團十郎家とは深い交流を持ってきました。市川團十郎家に子が無い時には、本家から養子を迎えるしきたりとなっているのです。4代、5代、そしていまの團十郎の父で海老蔵の祖父にあたる11代目も松本幸四郎家出身(屋号は「高麗屋」)です。その名を受け継ぐのが、ご存知、9代目松本幸四郎。その活躍は歌舞伎にとどまらず、主演を務めるミュージカル「ラ・マンチャの男」では、3ヵ月間にわたってブロードウェイでの上演も果たしています。

 2代目市川團十郎と共演したことで、一躍人気者となったのが、初代尾上菊五郎。以降、尾上家は何人もの名優を輩出する名門一族となりました。その末裔が、尾上菊之助、そして寺島しのぶの兄妹。そんな尾上家にあって随一の名優と称された人物がいます。それが、幕末に活躍をした、5代目尾上菊五郎です。容姿がすばらしく、いくつもの伝説の名演技を残したといわれています。現在、その名を継いでいるのが、7代目尾上菊五郎。屋号は清水寺の音羽の滝から取った「音羽屋」です。

 そして、中村獅童や中村勘太郎など、実は歌舞伎でもっとも多い苗字がこの「中村」。中村姓を持つ役者、すべての祖先とも言える人物が、初代中村勘三郎です。この勘三郎、元々は役者ではありませんでした。團十郎ら人気歌舞伎役者が出演していた舞台のひとつ、中村座のオーナーだったのです。その勘三郎が自ら舞台に立つようになり、現在の中村一家が生まれたのです。勘三郎の名を継ぐ人物が、中村勘太郎の父、5代目中村勘九郎。来年、中村勘三郎の名を襲名することになっている勘九郎は「平成中村座」を復興。来年はニューヨークでの平成中村座公演が決定しています。

 この勘三郎家の親戚筋として生まれたのが、名門とうたわれる、中村歌右衛門家。しかし、2001年に亡くなった6代目中村歌右衛門以降、まだその名を継ぐものはおらず、中村歌右衛門の名は空席となっています。6代目中村歌右衛門の兄弟、中村福助の孫にあたる人物が、中村橋之助。遡って、4代目歌右衛門の養子の子が、中村鴈治郎。容貌に恵まれたこともあり、上方歌舞伎の伝統を受け継ぎました。3代目中村雁治郎は来年、市川團十郎と並び称された西の天才・坂田籐十郎の名を継ぐことが決まっています。この3代目雁治郎の妹が中村玉緒。夫人はあの、扇千景です。屋号は「成駒屋」。更に、歌右衛門一家の門弟から生まれたのが、中村歌六一家。3代目中村歌六の次男が中村時蔵。その三男が初代中村獅童。その息子が、2代目中村獅童。屋号は「萬屋」です。

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