4月25日放送のディレクターズアイ 

4月25日放送 チーフディレクター/田畑正
※後半にディレクター/小林昭一【加藤と佐藤と北朝鮮】があります。

【もうすぐだ!永田町で何かが壊れ始めているゾ】

政治家のスキャンダルが後を断たない。番組冒頭のVTRで紹介した自民党・麻生政調会長の「くだらねぇ、ちんけな話じゃないか」というのが、昨今のスキャンダル報道に対する永田町の政治家の一般的な受け止め方ではないだろうか。
もちろん私は、この見方に与するつもりはない。むしろ、戦後政治の「何か」が壊れ始めている証左だと見ている。一体何が壊れ始めているのだろうか。そしてそれは私たちにどんな意味をもつのだろうか。そのことを考える上で是非、国家戦略本部の活動に関心を持ってもらいたい。

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あなたは知っていますか?「国家戦略本部」で話し合われていること
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現在、自民党の国家戦略本部で毎週、「政と官」の関わりあい方を巡って侃侃諤諤の議論が行われていることはあまり知られていない。もともとは鈴木宗男議員の外務省への不当介入疑惑に端を発した議論だが、そのたたき台になった国家戦略本部の案は、官僚への働きかけを原則として大臣・副大臣・政務官に限り、例外的に一般議員が官僚に働きかけを行った場合にはその内容を文書に残すというものだった。

当然、反対の大合唱である。曰く「政治家性悪説に立脚しすぎだ」、曰く「官僚への異常・不当な介入をなくせばいいだけであって、正常な接触まで制限すると政策立案そのものが出来なくなる」、曰く「どこまでが正常な接触で、どこからが異常・不当な接触になるのか」など詰問調の意見から「国道を立体交差にしてくれという地元の陳情を何処へつなげというのか」、「ある国家プロジェクトに地元企業が役立つと判断したら官庁に紹介していいのでは」などなど哀願・相談調の意見まで、どの議論も政治家の日常活動に根ざした意見だけになかなか一刀両断とは行かない。中には頷けるものもあって聞いていて飽きない。
文書作成についても「官僚が作った文書が必ずしも正しいとは限らない」「官僚と政治家が合意したものだけ文書に残してはどうか」という意見から「全部ガラス張りにしたらいい」という意見まで出て、これも、言うは易し行うは難し、である。
議論は大筋、以下のように収斂してきているように見える。

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一、政策立案に関する政治家と官僚の接触・意見交換は大いに行うべし

一、ただし行政執行(=決まったことを行う行政本来の仕事)に関しては原則として内閣に入っている大臣・副大臣・政務官を通じて官僚を動かすこととし、

一、政治家と官僚が例外的に接した場合の文書化は両者が合意した場合に限る。むしろ文書化できないような政治家からの陳情を官僚は無視していい、とする。

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これでは骨抜きではないか、という批判もあるだろう。いやこれくらい政治家と官僚の接触の余地を残しておかないと、ただでさえ官僚主導なのにますますそれに拍車がかかってしまうという反論もあって、なかなか合意形成は難しい。だが、真剣にこういう議論をしていることはもう少し評価していいと思う。何より大切なのは、こうした議論を国民が監視していくことである。

ただし議論を聞いていていくつか思うところもある。いくら会議が侃侃諤諤でも出席者の顔ぶれがいつもおなじみ、両手で足りるくらいというのにははっきり言って大失望である。大自民党をしてたったこれだけか、と暗澹たる気持ちにさせられる。「だから自民党なんだ」としたり顔で解説することもできるが、そうはしたくない。「こういう雰囲気がわずかでも残っているから自民党はまだ救いがある」と安心する気にも勿論なれない。10年前の政治改革論議の、金丸氏をして「熱病に罹った」と言わしめたあの盛り上がりを知っている者としては、これを議論のための議論に終わらせたくないと、切に思う。

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もう一度熱病に罹ってみては?
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盛り上がりに欠けるのは何故かと考えてみる。最大の原因は、国家戦略本部が目指している理念・哲学が政治家同志の間で共有されていないことだ。時代認識といってもいい。それらが共有されたとき爆発的なエネルギーが発揮されるのを10年前の政治改革論議に見た。あの時は、竹下派分裂という怨念をもそこに取り込んだことが、爆発的な求心力にもなり、遠心力にもなった。だが現在のところ、いずれの力も正直感じられない。だから抵抗勢力のほうにも危機感がない。

2つ目は、国民を巻き込む努力が足りない点だ。こうした議論がテレビカメラを通じて公開されないのは、非常に残念だ。国民的議論を喚起するチャンスをみすみす摘み取っているように私には思える。小泉総理が効果的なメッセージを出さないのも問題だ。国家戦略本部のメンバーらに対して3月、「自民党が変わらなければ自民党をぶっ潰すという気持ちは今でも変わっていない」と語ったというが、国民に直接伝わってはいない。
これらがすぐ解決するのなら見込みはあるのだが、そんな雰囲気もない。特に世論が動かないところに改革の成功はない。そうであればせめて国民との間をつなぐのが我々マスコミの使命だと考えたからこそ、今回あえて国家戦略本部を取り上げたつもりではある。

さて、そもそも今回の「政と官」のあり方についての議論は、鈴木問題への対症療法的な側面が強いものだった。国家戦略本部が本来、目指していたのは、「サービス型政治から国家経営型政治への転換」だった。これは自民党の遺伝子破壊にもつながりかねない内容を含んでいる。私なりに要約すると、次のようになる。

『これまでの政治は、実質的な政策立案は官僚が行い、その上澄み部分で多少修正したそぶりを見せ、もっぱら予算という果実を配分するだけ。その完成形が田中派に見られるサービス型政治だった。配分業には政策はほとんど必要ない。だから議員が議員をカネで買収する風潮が生まれる。それを踏襲したのが鈴木宗男氏であり、一見それとは無縁に見せていた加藤紘一氏だった。そのような政治が許されたのは右肩上がりの時代だったから。これからの政治は、まさに国家を経営するごとく、国のあるべき青図を描き、政策を大胆にそれに適合させていく・・・』。

何の事はない。これまで護送船団と言われた業界が次々と国際競争にさらされていく中で、ようやく経営らしい経営を始めたのを政治が後追いしているに過ぎない。競争のないところに経営はない。確かに政治に競争がなかった。ほって置いても経済は順調に拡大してくれた。坂の上の雲を見上げてそこに近づくことだけを考えていればよかった。が、これからは違う。政策の優劣が国家の浮沈を決め、政党の浮沈も決める。だから取締役会(内閣)は、スピーディで時には果敢にリスクをとる意思決定も必要だろう。そのためには強いボードでなくてはならない。つまり、情報や権限を集中させなくてはいけない、となる。

そして、その中心が、VTRでも取り上げた保岡事務総長であり、保岡らが中心になって3月にまとめたのが、政策決定システム改革案である。「与党事前承認の廃止」「事務次官会議の廃止」「政と官の接触を制限」の3つが柱だ。要するに、自民との遺伝子ともいうべき「サービス型政治」との決別宣言である。
確かに、これらが実現すれば、小泉が3原則として掲げる(1)首相中心の内閣主導体制の構築、(2)官僚主導の排除、(3)族議員政治との決別が簡単に達成されるだけでなく、小泉が目指す構造改革もスムーズに運ぶだろう。つまり、小泉への期待のうち「構造改革」達成の必要条件となるのが、国家戦略本部が目論む「政策決定システム大改革」=「サービス型政治からの脱却」=「国家経営型政治への大転換」・・・という構図である。

問題は、小泉内閣がこの「政策決定システム大改革」を実現できるかどうか、である。世間では小泉内閣の支持率が“真紀子斬り”で下がって以来、小泉内閣行き詰まり論が盛んだ。しかし考えてみると、支持率80%という数字は、自民党支持者と野党支持者が同居して初めて達成される数字である。つまり、去年までの小泉支持の中には、小泉さんが自民党を壊してくれることへの期待があったと見るべきではないか。今の40%台の支持率は、その層が離れた結果と言えなくもない。発足当初から、「構造改革」と並んで「自民党を壊すこと」が小泉さんへの期待の中身だったのである。その一翼をも二翼をも担うのが「国家戦略本部」という訳である。

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「天与の内閣」とその行方・・・
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今回の取材中、保岡は小泉内閣を、何度も「天与の内閣」と表現した。これが実現できるのは小泉内閣しないという意味である。その保岡の地元は薩摩である。小泉も薩摩の血を引いている。保岡と朝の散歩をともにしながら、地元に残る明治の元勲たちの足跡をたどった。100数十年前の明治維新の熱気が今なお漂うこの地に立つと、“維新”がそんなに困難なこととは思えなくなってくるから不思議だ。おそらく保岡もそう感じているのだろう。

さて国会の姿である。政治家のスキャンダルがここまで吹き出ると、我々メディアの人間でもキャッチアップしていくのが精一杯だ。国民はきっと怒りを通り越して呆れているに違いない。こういうときこそ少し引いた目線で俯瞰してみたい。辻元氏や真紀子氏も含め一見バラバラに見える個々のスキャンダル噴出という現象だが、これまで自民党の成功システムであった「サービス型政治」、それと表裏をなす「政策よりカネ」の政治が醜い形で噴き出し、そのシステム全体が音を立てて崩れて始めているように見えないだろうか。加藤氏の出納帳のカネが機密費だろうとなかろうと(状況証拠から言ってまず機密費であることは間違いない)、国民の代表である政治家が特定の政治家からカネをもらう感覚自体、前時代の遺物に思えてくる。
だからこそ次に世論のエネルギーがここでどういう役割を果たすかが、重要なのだ。永田町の動きを単に傍観するのではなく、あくまで前向きに今の流れを後押ししたい。これがかつてのように一つの国民運動のようになればしめたものである。

おりしも23日、小泉総理肝いりの郵政公社関連法案が国会に提出された。自民党総務会では法案の中身に触れない形で提出を了承したという。出席者の反発の声が飛び交う中、異例の対応である。内閣提出の法案といえども与党が事前に審査し、承認するというこれまでの慣例に風穴を開けた形だ。「国家戦略本部」で理論構築している間に、実戦で波状攻撃をかけている様相だ。今後の展開は予断を許さない。物事が大きく変わるときは、我々の想像を越えたことが起こるものだ。刮目していきたいと思う。(了)
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【加藤と佐藤と北朝鮮】ディレクター/小林昭一

脱税容疑で逮捕された加藤紘一事務所の佐藤三郎前代表に、私が最初に会ったのは、95年の春だった。自民党政調会長だった加藤氏が深く関与していた北朝鮮政策を取材するのが目的で、取材を議員会館の加藤事務所に申し込むと、佐藤前代表から連絡があり、TBRビルにあった加藤事務所を尋ねた。
 
当時、日朝関係は、金丸・金日成会談を受けて、懸案だった日朝国交正常化交渉がスタートしたものの、北朝鮮核疑惑によってまもなく中断。日朝関係は再び冷え切った関係に戻っていた。

そうした中で、自民、社会、さきがけの連立政権・村山内閣が誕生した。「野合政権」などという批判をかわすため、連立与党の政策担当者は、自社さ連立政権でしかできない政策課題に積極的に取り組むことで、政権の求心力を高め、イメージアップにつなげようと考えた。その政策課題のひとつが、中断していた「日朝国交正常化交渉」の再開だった。北朝鮮との強いパイプを維持してきた社会党が政権の中枢に入ったことで取り組みやすいと考えたからである。

このテーマの責任者に、政調会長の加藤氏が就任した。加藤氏は、国交正常化交渉再開に向けて、渡辺美智雄氏を団長とする訪朝団の派遣や、北朝鮮へのコメ支援を実現することになる。本来ならば、こうした訪朝団の派遣やコメ支援などは、社会党ルートで行われるはずだったが、村山政権下で北朝鮮政策を仕切ったのは、社会党ではなく、加藤氏だった。
 
何故、加藤氏なのか。本人は「たまたま、政調会長という職にあったから」と言っていたが、実は、新しいパイプ役として加藤氏を指名してきたのは、北朝鮮側だった。95年5月「サンデー・プロジェクト」に生出演した加藤氏は「こちらもあらゆるチャンネルを通じて北朝鮮とのルートを探していたら、向こうもこちらを探していた」と発言している。加藤氏は気付いていなかったのかも知れないが、金丸信という大物を失った北朝鮮側は、それに代わる、しかも社会党・朝鮮総連ルートではない新しい対日ルートを探しており、それが、自民党のニューリーダーのひとり加藤氏だったのである。

あまり知られていないが、加藤氏がセットした95年3月の渡辺訪朝団の派遣に最後まで抵抗した社会党だった。渡辺訪朝団がピョンヤンに到着した初日の深夜、久保亘書記長(当時)は、朝鮮労働党の金容淳書記に「何故、社会党の頭越しに、加藤と話を進めたのか」と猛烈な抗議を行った。しかし、金容淳書記にしてみれば、これからは自民党ともパイプを持たなければならないとアドバイスし、その第一候補が加藤氏だと北朝鮮側に伝えたのは、目の前で「加藤氏と話をしたのはけしからん」と言っている社会党だったので、大いに困惑していたという。北朝鮮側に加藤氏を推薦したのは、社会党関係者だけではない、北朝鮮を訪問したことのある国会議員や政治評論家、ジャーナリストなども、「自民党の次の実力者は誰でしょう」という北朝鮮側が必ず持ち出すこの問いかけに、皆「加藤氏」と答えていた。

北朝鮮と永田町にホットラインが設けられたのは、金丸訪朝団の後だ。「朝鮮総連を通さないで連絡をとりたい」(北朝鮮側)というのがその理由だった。最初に、社会党のF議員の事務所と、パレロワイヤルにあった金丸事務所に置かれていたが、そして、そこに加藤事務所が加わることになったという。
 
その頃、加藤氏の回りには、様々な北朝鮮人脈が結集することになる。名古屋からピョンヤンへの直行便を飛ばし、その後統一協会の文鮮明教祖の生地巡礼ツアーを組織する「マダム・パク」と呼ばれる在米韓国人女性実業家。さらに、北朝鮮の政権中枢に太いパイプのあり、丸の内で貿易商社を経営するY氏・・・。こうした北朝鮮人脈との窓口になっていたのが、佐藤三郎前代表だった。佐藤前代表は主にY氏と組んで、北朝鮮側と頻繁に接触することになる。佐藤前代表が最初にピョンヤンを訪問するのが、95年3月。渡辺訪朝団の一員としてピョンヤンを訪れている。この時、Y氏に加藤事務所の名刺を持たせていたため、問題になったが、公安情報によれば、その後も、シンガポールで2回、北京で1回、北朝鮮側と接触したと言われている。ここで、一体何が話されたのか。当時週刊誌や怪文書などは、その「利権」話で大いに盛り上がったが、佐藤前代表は、自分はあくまで双方の連絡役にすぎないと言うだけで、最後までその内容を明かさなかった。

北朝鮮側は、北朝鮮の国家目的実現のために、加藤氏を大いに利用しようとしていた。そこに、飛び込んでいったのが、北朝鮮外交では全く素人の佐藤前代表。お付きは、北朝鮮の政権中枢に太いパイプがあり、日本の公安にマークされていたY氏だった。双方の思惑が両者を急接近させた。それは「利権」が目的だったのか、それとも国交正常化交渉の再開という日本外交の成果だったのか。

95年7月、韓国紙とのインタビューで、加藤氏は「朝鮮半島問題は南北、米朝、日朝の順番に国交が結ばれるのが理想的だが、現実的には、米朝、日朝、南北の順番になる」と述べるなど、海外のプレスに朝鮮半島問題をきちんと語れる数少ない政治家の一人だった。しかし、その裏では、今回の辞職劇で明らかになったような加藤氏の二面性も、いや「加藤」と「佐藤」という二面性があったのかも知れない。その後、拉致問題が発覚し、日朝関係がさらに冷え込むことになり、「加藤」も「佐藤」も静かに北朝鮮から手を引くことになる。

一体2人は北朝鮮に何を求めたのか、機会があったらゆっくり聞いてみたいテーマである。

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