3月30日放送のディレクターズアイ 

3月30日放送 プロデューサー/原 一郎
※後半に、ディレクター/丸山真樹【放送を終えて】があります。

【「メディア規制三法案」は大げさに騒げ!】

まず、「青少年有害社会環境対策基礎法案」を除く「個人情報保護法案」「人権擁護法案」については、明らかに何らかの法規制が必要であると考えます。野放図に発達してきた高度情報社会に氾濫する個人情報、虐待・差別をはじめとする深刻な人権被害。法案作成者が語る実情や法案意図に基本的に異論はありません。

では、何で”大騒ぎ”するのか? 3月30日の放送に関しても「もし拡大解釈して恣意的に運用されたとしたら」という仮定のもと、法案の文言のごく一部を取り出し、重箱のスミつつき的に危機感を煽っている訳ですよね、はっきり言って。

そのココロは、「法案を作った彼らが実際に法律を運用するわけではない」という<杞憂>に尽きます。今の小泉内閣でそうそうみだりに三法案を乱用してメディアを規制してくるという事態は、あまり現実的ではないと思っています。しかし、法律というものは何十年も残っていくものです。例えば20××年、有事という言葉が現実的になってきたキナくさい時代がやってきたとして、時の為政者が「パンドラの箱」の中から法案の文言を取り出して見せ、水戸黄門の印籠のようにメディア管制の根拠とする・・・といった事態も考え得る訳です。そんな老婆心から、法案審議を目前にした今、この時期に目一杯<杞憂>し大騒ぎするのは、次世代の子供たちのためのいわば義務だと考えます。

結果、「この法案は何だか危ない」という世論が喚起され、国会でちゃんと議論されたり裁判所で判例が出される際に一考されていくのならば、それがこの法案がみだりに乱用されない抑止力になっていくのではないでしょうか? 

「個人情報保護法案にいう報道機関というのは、新聞・テレビ・雑誌・フリージャーナ リストはじめ情報を発信している全ての機関を指すものです」

「もちろんワイドショーも女性誌も全部含みますよ」

「政治家など公人の公的な問題は当然除外です」・・・

といった質疑や付帯決議、法案自体の修正。そんなひとつひとつが、危険な芽を摘んでいくのではないでしょうか。今の情勢を見ると、少なくとも「個人情報保護法案」と「人権擁護法案」はいずれ成立する運びとなるでしょう。私たちは、「あの騒動はメディア側の被害妄想、騒ぎすぎだったよね」といつか笑い話になることを期待しつつ、大げさに踊り、騒ぎ続けます。

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【放送を終えて】ディレクター/丸山真樹

“メディア規制3法案”。
いったい何が規制されるのか。取材をはじめる前にこう思った。そして、取材をしていくうちに、これら法案に対する認識の甘さを痛感した。
「取材が出来なくなる」
我々の取材方法。夜討ち朝駆け、電話、ファックス、直撃取材・・・。特に個人情報保護法案(個人法)と人権擁護法案(人権法)は、上記のような取材活動に直接的な影響を及ぼしかねない。われわれは疑惑や事件などがあれば、真実を明らかにするため取材をする。しかし、個人情報保護法では、“本人の適正な関与”ということで、情報を入手したら相手が適正に関与するように配慮しなければならないのだ。果たして、そんなことができるだろうか。これは、疑惑・事件取材をまったく無視したものだ。我々“報道機関の報道目的“の場合には罰則がない基本原則が適用されるが、圧力以外の何者でもないのではないか。

さらに、人権擁護法では犯罪被害者などを対象にしているが、疑惑の人物らがこれら法案を乱用する可能性もある。例えば、疑惑について報道した場合、相手が「報道によって名誉が損なわれた」と主張した場合、疑惑の人物がある意味、名誉毀損罪としての”犯罪被害者“になりうるのだ。これらの場合、個人法では主務大臣が、人権法では法務省の外局の人権委員会が出てくる。さまざまな議論があると思うが、結果的に報道を抑制する可能性を秘めているのは確かだ。

しかし、もちろん報道被害はあってはならない。松本サリン事件での河野さんや桶川ストーカー殺人事件での猪野さんは報道による被害をうけた。なぜ、報道被害が生じてしまったか、今後どうすれば報道被害がなくなるのか。我々報道の人間が一人一人、現場に出たときに、この取材をすればどうなるか、当事者の視点に立って今まで以上に考えなければならないが、それは法律によって規制すべき問題ではないと思う。一人間としての取材者自身の問題だ。憲法21条で表現の自由が認められていることとは別にして、素朴に考えて、やはり悪いものは悪いと、世の中の不正を報じる手段を抑制する可能性がある法案には大いに疑問を感じる。放送を終えて、一層こう思った。

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