2002年9月28日の放送をもって、「ザ・スクープ」のレギュラー放送は終了となります。
これまでテレビ、ウェブサイトで番組をご覧いただいてきた皆様、本当にありがとうございました。
今回、サイトでは最終回スペシャル企画としてみなさんへの「ラストメッセージ」をお届けします。
第2弾は、“最強のスタッフ”陣からのメッセージです。
| 出演者編 |


まず正直に告白しておくと、「番組からの急告」ではカッコつけたことを書いてますが、私とスクープの関わりはここ2年に過ぎず、鳥越キャスターを中心に先人たちが創ってきた13年間の歴史のほんの末席を汚したに過ぎません。
それ以前は、情報バラエティ・ワイドショー・紀行ドキュメンタリーなど「視聴率が唯一絶対である」というテレビ観を20年にわたって生きてきた人間です。
報道局とすら無縁だったテレビ屋がスクープと関わることになったのも、おととしの秋、スクープ21として日曜ゴールデン帯に進出する際に、「ブロードキャスターみたいなファミリー視聴型の番組にして欲しい」「とにかく激戦区で視聴率を取ってくれ」とのことで引っ張られたのが真相です。

当然、すぐに鳥越キャスターらが築いてきた価値観と激突します。また私自身、それまで視聴者としてスクープ・ファンだったので、好きだった番組を自分の手でスポイルしているような矛盾とも直面しました。こうした葛藤の中で、やがて「視聴率は極めて重要な指針だけど、それが全てではない」という新しいテレビ観に目覚めていきます。
このHPをご覧になっている皆さんにとってはお笑い草かもしれませんが、入社20年目にして目からウロコがポロポロ・・・といった思いでした。
ところがそうなると、視聴率と番組内容の狭間で苦悩はますます深刻です。
特に、ゴールデン進出から半年後の春、「平均視聴率8%をクリアしないと打ち切りの可能性が高い」というせっぱ詰まった状況になってからは、はっきり言って、存続のために魂を売ることもありました。
今考えると、こうした葛藤は「営利企業であると同時に、公共放送的な側面も併せ持つ」民放というヌエのような存在が根元的に内包している矛盾そのものなのですが・・・

結果、日曜ゴールデン帯で「鉄腕ダッシュ」や「からくりTV」といった牙城にドン・キホーテのように挑んだスクープの視聴率戦争は1年で終焉し、現在の土曜午前中・関東ローカルという枠に仮住まいすることになります。
当然、全国ネットのゴールデン番組に比べて、番組予算・スタッフは半減し苦しい闘いが強いられます。ただ、そんな台所事情とは別に、私も鳥越キャスターも心のどこかでホッとしていたのだと思います。やっとこれで、本当にやりたい番組ができる・・・
当然ある程度の数字は残していくが、もう魂までは売らなくてもいい、と。
(もちろんスクープといえども、裏番組を徹底研究してCMの入り時間を決めたり、CM前に多少あざとい引っ張りを作ったりという初歩的な努力は怠ってませんが)

 さて、苦しい台所事情での戦略は鳥越キャスターのいうスナイパー主義。番組自体を「権力へのチェック機関」に特化し、総花的な番組づくりを辞め、一点突破でターゲットに迫っていくこと。結果、去年の秋以降のローカル・スクープは、テレビ界全体でも番組史上でも、抜きんでてアグレッシブな存在だったと思います。
(検察の裏金を放送したときは、万一、私やスタッフの身に何かあればこの手紙を公開し真相を追及して欲しいと「遺言状」まで用意しました)

やがて、新戦略で迎えた土曜午前中の枠も安住の地ではなくなり、ここ3ヶ月の打ち切り騒動に至るわけですが、私がスクープと関わったこの2年は、かなりスリリングで激動の時代でした。大げさに言えば、「テレビとジャーナリズム」という問題に直面し続けてきました。皆さんからのメールにもあるように、それはひとりテレビ朝日やザ・スクープという一番組の問題ではなく、全ての民放が抱えている問題だと思います。

先月、「ザ・スクープの存続を求める会」のシンポジウムをこっそり見に行ってきました(最高戦犯の身としては袋だたきに合わないように最後尾で)。
これまで私たちは「視聴者」という曖昧模糊とした、ある意味、「想像上の視聴者像」に向かって情報を発信してきたわけですが、22年目にして初めて顔が見えた皆さんから出た言葉の数々。

一言で言えば「テレビは誰のものか」というテーゼ。

それは、当たり前のようでいて、実は全民放に突きつけられたテレビ史上画期的な問題提起だったと思います。(個人的には再びウロコがポロポロ・・・)
残念ながら私たちは、当面それに対する明確な回答を持ち得ていません。いや、正解は簡単でシンプルなのかもしれませんが、民放という組織の中でどう消化していくのかがまだ見えてきません。
うまく言えませんが、今は「私たちに与えられた戦場は、番組という表現の場しかない」という認識です。例えば、年間数回のスクープスペシャルで内容的にも、もちろん視聴率的にも結果を残し、次の番組改編で月1回、週1回と復活に向けての基礎を築いていくような・・・

というわけで、スクープスペシャルのプロデューサーとして、スタッフとしてはただひとり番組に居残ることになりました。13年続いた伝統の番組を終わらせてしまった番組責任者として、起死回生を目指して背水の陣でがんばります(何ともはや、安直な言い方ですが)。
・・・いや、スクープは終わったのではなく、まだまだ「存続している」と考えています。しばらくの間、週1回のレギュラー放送ではなくなるだけで。もちろん継続的に取材できないハンディはありますが、泣き言言っても始まりません。

支離滅裂な文章ですが、要するに、引き続き応援よろしくお願い申し上げます。

存続を願う皆さんのメールやお手紙は涙が出るほど嬉しかったです。

最後に、これまでほど頻繁に更新できないかもしれませんが、番組が存続する限り、
このホームページも続けていきますので、また遊びに来てください。
少し時間的余裕ができそうなので、過去の「スクープ傑作選」なども動画配信用に作ってみます。




僕は視聴率というものを意識したことがない。
この業界にいてそう言い切るには勇気がいるが、少なくとも視聴率をとろうと思ったことはない。数字が高い方がそれはうれしいに決まっている。でも僕は、いつも朝の通勤電車ですれ違う、日経新聞を片手に夜遅くまで働き、会社人生だけで終わりたくないと思いながら、日常に追われ、家庭生活も大事だけとどこかこの国がもう少しましな国になって欲しいと思っている、そう、いつも満員電車に耐えているあの人たち・・・「日本のサラリーマン」に見てもらいたいと思っていた。「女子供に見てもらうつもりはない」などとうそぶいて同僚から顰蹙を買ったこともあったが、要するにあの人たち、は"自分"そのものなのだ。
人間、自分のこと以外は分りようがないじゃないか。だったら自分が見たいものをこの番組でやろう、そう思っていた。

が、甘かった。ガツンとやられたのは、去年暮れの狂牛病企画で農家を取材した時だ。千葉県の内藤さん。初めて狂牛病を出した農家だ。「来年はいい年になるよ」と笑っておられた笑顔をわすれることができない。あれだけのつらい体験をして、その言葉。強い、と思った。

そして、そこに取材に来ていたフリーのディレクター。決してテレビに出ることのない肉骨粉工場で働く人々。北海道の和牛農家・・・。その取材で知り合った人々は、僕がそれまで、出会ったことのない種類の人々だった。何が違うのか。毎日東京で見かける、いわゆる"自分"たちとは目の澄み方が違うのだ。みな借り物ではない、自分の生き方をしているがゆえの美しさと強さ。自分の言葉を持っている。"本物"の生き方。
それに比べ、毎朝、新聞やテレビの情報で頭でっかちになっている"自分"のなんとひ弱なことか。

あの時はほんとうに、この人たちを苦しめている行政は、間違っていると思った。
千葉の内藤さんを取材した足で東京に戻った。農水省の会見にぎりぎり間に合った。熊沢次官(当時)の言葉には、がっかりさせられた。"自分"がなかった。借り物の言葉だけでいろどられた会見。「この人自身の考えを聞きたい」と心底思った。同時にこういう"借り物"の論理で、あの人たちの人生をもてあそんで欲しくないとも思った。本物の生き方をしている人には、少なくとも"自分"の言葉で対抗しないと失礼だ・・・。その思いは自分にも返ってくる。これまでの生き方を自分なりに恥じた。
ザ・スクープ時代の鮮烈な思い出の一つである。

最後に、僕がザ・スクープに在籍したのは去年夏から今年6月までの約10ヶ月。
12年続いた番組に比べるとほんの一瞬である。政治部、サンデープロジェクト、ニュースステーションと歩んできた。その最後にこの番組で、それまで見たことのない人たちに出会えたことに感謝している。その思いが今の自分を支えているような気がする。
鳥越さんはじめ、番組に比して決して多くはないスタッフに多謝。




物心がついた頃からテレビ好き。まもなく四十路を迎えようという私ですが、テレビのない生活は今も昔も考えられません。「早く行かないと遅刻するわよ!」と母に三度注意されてからもなお玄関の陰から顔を出して茶の間のテレビを見ていたという私ですが、テレビの仕事に携わるようになって心がけていることがあります。

「自分が見たい番組を作る」それは報道番組でもワイドショーでも違いはありません。ワイドショー経験が10年を超える私が報道番組「ザ・スクープ」に関わったのは2年間でしたが、いつも自分が見たいこと知りたいことを調べて撮影して番組にしてきました。「戦力を持たないというこの国にある自衛隊とはどれほどの戦力なんだろう。」「田中真紀子の圧倒的な人気はどのようにして出来上がったのだろう。」すべて原点は好奇心です。報道番組はともすれば伝えるべきことを伝えるという姿勢になりがちです。しかし、そこには「伝えられる側を啓蒙してやる」というような驕りが入り込む危険性を内在していると私は感じています。いままでいろんな記者やディレクターを見てきましたが、人格的に優れている者などほんの一握りしか知りません。不完全な人間が伝えているのです。もちろん私も不完全きわまる人間です。そんな私がこの世界で意味を持つためにはどうすればいいのだろう。テレビ好きの私ができることは何なのか。それはなるべく客観性と普遍性に気を配りながら自分が見たいと思ったものを見ていただく。そういうことかなと今の所そう思っています。

そういう私はきっとジャーナリストではないのでしょう。そもそもジャーナリストになりたいと思ったこともありません。テレビ好きのテレビ屋さんがたまたま報道番組にいたのだと思っています。とはいえ、私ははまってしまったようです。腹の立つこと納得できないことは世の中にずいぶんあるもんです。それをテレビ的に追及することはどうも自分に向いているようです。世の中のいろいろなことに納得できない人々はたくさんいます。それらの人々の代わりに、調査して追及して皆さんにお見せする。今後もそういうことを仕事にしていきたいと思っています。今のところ私の居場所はそこにある。そう思っています。

ザ・スクープがなくなってもザ・スクープに感化された「分子」たちは野に放たれて生きていきます。ザ・スクープにはめられて、はまってしまった私のように。




私がまだ若かった頃、「スクープ」と題する番組の存在に、随分大層な、おそれを知らない命名だなと思ったものだった。その番組を自分が担当することなど考えたこともなかった。
しかし縁あってかその担当となり、またその最後を見ることにもなり、別の因縁も感じている。

私は2年の担当の間、日本にいる外国人の話や、政治の話を中心に特集を作ってきた。
前者に関しては、自分が取り上げている対象が少数派であるために、番組内部からも外部からも反応がにぶいことを痛く感じてきた。一方後者に関しては、時節柄、また派手でもあるゆえに比較的受け止めがよいことも知った。それが必ずしも前者ほどには心血を注いだものではないとしても。いま総合すると、その両方をできたことに安堵し、それがこの番組の度量であったと思い返す。
個々の特集の放送後に視聴者の方々からいただく、電話やメールでの「こういうことを知らなかった。番組で初めて知った」という反応は、例え少数の意見でも取り上げることの大切さと、他の番組ではまず扱わないだろうテーマをやる場があることの重要性を改めて認識させてくれた。

番組終了にあたり、「こういう番組こそ残して欲しい。他に何を見ればいいのか」という熱を込めた電話を私自身いくつも取らせていただいた。誠にありがたいと思うと同時にもう一つ別の考えが浮かんだ。
この番組だけがそれでいいわけではないと。

私たち報道の現場にいる者は、多くの一次情報に接する機会があり、それを出していく責務がある。ただそれはもっと多くの番組なり、機会で出すべきで、「他に見る番組がない。どこもくだらない番組で・・・」という視聴者の方々の声に応えていくためには、その場を生み出すことが一番だ。

「ザ・スクープ」という週1回の番組は終わるが、その精神は生きていくというのが私たち皆の考えである。視聴者の方には申し訳ないのだけれど、この番組でその精神とノウハウを培った分子が今後いくつもの場に散って、その場その場で新たな動きをおこしていくとすれば、番組が違っても、その方が視聴者の方々が望む「見応えのある番組を見せてほしい」という要望に沿うものではないかと思う。
細胞が分裂を繰り返すように・・・私たちは新たな場でやっていきます。




アークヒルズの11階にある「スクープ」のスタッフルーム。1年前に居た「スーパーモーニング」の喧騒ぶりに比べたら、それは静かなもの。聞こえてくるのはテレビの音くらい。

そんな静けさの中、取材先の医者に電話で「センセイ、センセイ」と一人大きな声で話している男がいる。田中伸夫である。仙台の筋弛緩剤混入事件が発生して以来、仙台出張34回、滞在日数のべ115日にも及ぶ。その間、数々の新証言と冤罪の可能性につながる事実を足で発掘してきた。やたら話が長いが、その取材姿勢には脱帽してしまう。

田中の後ろでは、プロデューサーの原一郎が原稿・台本を神業で書き上げている。放送前日のMAまで徹夜で担当、その仕事量はスタッフ1位。その一方、カラオケで見せる大スパークぶりは普段とは想像もつかない。猫をこよなく愛す。

原の次に姿を見せるのが堀信。リサーチャーとして番組の第1回から参加、スクープ
13年の生き字引でもある。スタバのコーヒーを片手に、席につくと同時に始まるのが貧乏ゆすり。たまに隣りの大木が膝に手を置くと一瞬止まるが、すぐに揺れ出す。膝は揺れるが、仕事は早い。

昼過ぎになるとスーツを着た田畑正が現れる。政治部記者出身で、年のわりにはフットワークも軽く、独自の取材先に足を運んでネタを取ってくる。原プロデューサーも信頼する懐刀。今年春にワシントン支局長に就任、議論好きだが、酒に弱く飲むとすぐ寝る。

田畑以上に議論好きなのが、玉川徹。取材も好きだが、画面に出るのはもっと好き。
お役人相手に弁舌をまくし立てやり込める姿は、玉川ならではのものとの評判。

昼過ぎになると姿を見せるのが、奈加充。数少ないロシア通の男。独自のロシア取材網を生かし、電話一本でウラ取りもOK。見た目は寡黙だが、ウオッカを飲むと熱く語り始める人情派。

ディレクターからの信頼も厚いのが寺崎貴司。韓国取材では時間に追われイライラする通訳に対し、ディレクターに代わって現場の雰囲気を和らげる大人の対応。取材相手への食いつきもバツグンで、マトを得たアドバイスも的確。オウム事件の時、現在の奥様(スッチー)と都内で会える時間が無いため、出張先で会って愛をはぐくみ結婚、現在2児のパパ。
同じくアナウンサーの岡田洋子。現在、朝の「うるおい宣言」を担当。同期の江野・山口と夜のネオン街に繰り出す業界の裏人脈通。

ディレクターの中で紅一点の花村恵子。アフガン難民問題、フィリピン人女性の殺人など独自の視点で長期に渡って取材。ある日の飲み会の席でサラリーマン化している最近の現場の風潮に対し「命をかけて取材している。いいものを作っていきたい」とピシャリ。花ちゃんの愛称で男性ファンも多く、「早く結婚したいなー」と本音もポツリ。

花ちゃんの前の席にいるのが飯島広介。「スクープに来て日々成長している自分を感じる」と一瞬周囲を唖然とさせたこともあるが、1人でやった指紋事件、同時テロでの初めての海外出張などで着々と力をつけてきた。見た目は好青年だが、若干優柔不断なところあり。

飯島と同期の丸山真樹。司法クラブ時代、検察担当として独自ネタをつかんできた
その取材力はバツグン。田中真紀子氏の秘書給与疑惑では新潟出張で関係者の懐に入って放送直前でスクープを取ってきた。酔うと大風呂敷を広げまくる。

午後になりスタッフが揃いかける頃、カバンも持たず知らぬ間に机に座っているのが杉岡靖久。ゲラゲラと、バカでかい声で笑うムードメーカーである一方、「ザ・休憩」と言われ、原稿を書いてもすぐに「腹が減った」と休憩する姿がなぜか目立つ。だが、田中真紀子氏の秘書給与疑惑で新潟に出張し元秘書側と粘り強く交渉、インタビューテープを持ち帰って来た姿はまぶしかった。

会議が始まる頃になると、海外出張から帰国した江野夏平がようやく姿を見せる。取材への思い入れは人一倍熱い(性格も熱いが・・)。パレスチナ問題、同時テロ、岡本公三独占インタビューなど国際ジャーナリスト(自称?)として活躍。たまに行く必要もないのに海外出張する傾向もあり?スクープ1のイケメンだが、私生活は波乱万丈。

一番最後に申し訳なさそうに、二日酔い明けで来るのが大木茂生。「ちょっと行っとく?」深夜になると必ず出てくる大木の悪魔のささやき。かつて一緒に組んだ者はすべてこの悪魔に誘われ、午前1時にもかかわらず、赤ちょうちんの暖簾をくぐるハメになる。だが、原稿と編集の神様が降りて来ると、普段見せない集中力を発揮する頼りになる男。

そして迷惑ばかり掛けている不肖ディレクター浅中賢志ら10数人のスタッフが揃ったところで、鳥越俊太郎、長野智子を交えた会議が始まる。しかし、オンエアーまでには、 いくつものハードルを越えなければならない。通称「鳥越超え」。
取材前後と、いったんVTRを編集した段階で、鳥越から出るいくつかの指摘。スクープに来たばかりのディレクターたちは、鳥越の「かまし」に、一瞬ぶっちゃけブルーになる。だが、目指すものは同じ。
還暦を過ぎたいいおじさんなのに、常に現場主義にこだわる鳥越、本番前のゲスト出演者との打ち合わせでも、直前まで新しい情報を引き出す姿は、勉強させられる。
その姿勢は長野にも言える。パレスチナ・同時テロを始め、国内取材でも現場へのこだわりを常に見せていた。  

そして番組の裏方として長年に渡ってデスク業務をしてくれたのは大江明美。
毎回徹夜して助けてくれたのはADの本田健一・増永和幸・稲垣綾子・板垣孝明・矢野貴子・谷古宇紀子。わがままなディレクターたちの無理難題を一手に引き受けてくれた。
この他にも、美術・照明・音声・技術・スタイリストさんたち、ホームページ担当の宮原さん、小曽根さんを始めとする古舘プロのみなさん、13年間ナレーターをして頂いた斎藤さん、TKの尾木さん・・多くの人たちの支えがあった。
そして忘れてならないのは家族の支え。
「みなさん本当にありがとうございました」



これまで番組を見てくださった視聴者の方々、ありがとうございました。



私はザ・スクープには1年ちょっと腰を据えました。
番組が終わるから一言といわれても、今、最終回のVTRを作っているので
さらに、寝てもいないので、すぐに言葉は思いつきません。
ただ、あと10分でこの原稿が締め切りというので、ちょっと書きます。
「スクープ終了」非常に悲しいです。

私は、以前、記者クラブに所属していましたが、スクープの手法、これを見たときには唖然としました。"角度がいい"というのでしょうか。
とにかく、他のマスコミがあまり目をつけない、見過ごしてしまいそうなことでもしっかり捉えていこう、という姿勢は、報道のあり方も含めて深く考えさせられました。
おそらく、スクープでいろんな意味で一番得をしたのは私じゃないでしょうか。
緒先輩に感謝します。

番組は終わってしまいますが、私はこれから社会部という古巣に戻ります。これからも、バリバリ取材したいと思います!!また、これまで取材に協力していただいた方々には本当に感謝を申し上げます。今後もよろしくお願いいたします。では、仕事に戻ります。



NYテロ直後のパキスタン取材、誤認逮捕〜指紋の謎・・・スクープでの2年間。放送1週間前の作業は、体力・精神的にキツかったですが、放送後の達成感はたまらないものがありました。
ほんとうに終わっちゃうんですね・・・
今後は、朝の「スーパーモーニング」で頑張ります。



一言で言うと、本当に素敵な人たちに会えたということです。
ともすれば大局的な方へ傾きがちなマスコミ、世論の中にあって、その影に隠れ、消え入りそうな声に耳を傾け、結果的にそれが世の中を大きく動かすスクープとなる。
それを実践しているスタッフ。そしてその集大成を目の当たりにするとき、本番当日、「ザ・スクープ」の番組タイトルとともに、あの番組テーマミュージックが流れてくると、いまだに背筋がゾクゾクとします。

今は寂しいと言うよりも、「ザ・スクープ」に携わった人間という重み、緊張感をこれから背負って行くんだなぁなどと、勝手に身の引き締まる思いなんてしています。私の中の「ザ・スクープ」は、終わらないような気がしています。




ザ・スクープとの関わり合いは、92年に日中国交20周年の企画でザ・スクープスペシャルの取材で関わったのが最初だったと思います。95年には、「化学物質過敏症」という、当時はまだ聞き慣れないシックハウス症候群の問題を番組で取り上げてもらいました。今考えるとこれがディレクターとして一本立ちしたようなものだったので、ザ・スクープは私にとって特別な「場」だったことになります。その時のことでよく覚えているのは、鳥越キャスターがこの難しい内容のテーマを、どうわかりやすく視聴者に伝えようかと、放送時間ぎりぎりまで一生懸命コメントを考えてくれた姿でした。一生懸命取材した者としては、うれしく、感動したのを覚えています。

そんな「場」に、スタッフとして参加できたのは、98年春。本当にうれしかったのを覚えています。スタッフは、いずれも取材、構成の達人揃いで、学ぶことばかり。自分が得意なのは、取材でした。
多くの事件で記憶に残るのは、佐賀の少年のバスジャック事件。バスの同乗者からいち早くその状況をインタビューできた時は一寸うれしかった。でもそれは全くの偶然で、運が良かっただけなのでした。

放送できなかった番組もあります。それは児童虐待がテーマでした。判決を前に、幾度も面会と手紙を交わして行く中で、その被告のお母さんが自分の生い立ちにたどりつき、自分の心の闇に気がついていく過程を描いたものでした。しかし、判決直後、彼女から「放送をしないで下さい」という手紙。もちろん彼女からは事前に放送の許可は取っていたのでしたが・・・。突然の申し入れでした。当時のプロデューサーは「放送は人を不幸にするものではない」と放送中止を決断されたのでした。今も心に残る課題です。

そして、長期取材になった仙台・筋弛緩剤点滴事件。この事件では、警察や検察の取り調べが強引だったことが取材で明らかになってきています。唯一の殺人事件とされる急変では、急変に実際立ち会った二階堂昇元院長が「死因は筋弛緩剤ではない。心筋梗塞の病死である」と番組で、そして裁判で証言しました。初めてこの事実を聞いた時は腰が抜けるほどびっくりしました。当時二階堂元院長は病で、健康上重大な岐路にありました。裁判の証言が何時になるか分からなかった当時、まさに命をかけて証言を残される決意をなさったのでした。真実のためには、その良心を貫かれる方で、私は、大正生まれの素晴らしい日本人の典型を見る思いがしたのでした。

ザ・スクープでは、権力監視、真相追及、時代の風をテーマに関わってきたように思います。様々な事件を取材して得た教訓は、多くの事実は真実を隠すことがあるということです。事実の中に真実を埋もれさせてはならないと思う。




「ザ・スクープ」に参加したのは「スクープ激動の時代」が始まった2年前、
ゴールデンタイムに進出する時でした。
「大型報道番組初のゴールデン」ということで、その頃はスタッフもかなり多く、
「いやー、さすがゴールデン」と思ったものでした。
色々なことがあって、今はさっぱり思い出せませんが、去年10月ゴールデンから一転、関東ローカルになった時はよく覚えています。
「スタッフが激減・予算もドドーんと急落」いやいや・・・本当に・・・
でも、その頃から本来の「スクープ」らしくなったような気がします。
スタッフ数が少ないだけに、サボっているのがとても目立つ環境になりました。
ちょっと目を離すとすぐに休憩する私が改心する時が来たのです。
隣の席の男(この男の特技は屁)からの厳しい監視、「休憩組」と呼ばれ尻をたたかれる日々でした。「休憩組」にはもの凄い相棒がいるんですが・・・それはそれとして。
でも・・・結局、変わりませんでした。

今、最後の放送の前日、編集の合間にこれを書いているので、何を言っているのか自分でもよく分かりませんが、とりあえず、こんなところです。
ドキュメンタリー好きのディレクターにとっては結構憧れだった「ザ・スクープ」。
それが終わるという現実は今度ゆっくり考えます。飲みながら・・・
でもその前に!!!早く編集しなければ!!!放送に間に合わない!!!
それでは・・・




ひょんな事から声をかけてもらいザ・スクープで仕事をすることになったのは、2年ちょっと前。
クルスク原潜沈没、そごう破綻、エヒメ丸、ミール落下、偽一万円札、狂牛病、道路公団民営化、アフガニスタン・・・。
わずか2年程の間に、世界をそして日本を震撼とさせた事件が目白押しだった。
地味な調査報道(的な)取材もさせてもらった。
ボツになった取材もあった。
急に差し替えになることもあった。
色々あった・・・。

今振り返ると、ザ・スクープという番組は、懐の深い番組だったと思う。

そんなザ・スクープが無くなってしまう。

栄枯盛衰?
城破れて山河有り??
なんのこっちゃ???

これからどうしようかな・・・?




「ザ・スクープ」との関わりは、1993年、旧ソ連邦からの核物質流出疑惑関連取材で、アメリカに於ける核弾頭処理の状況をテキサス州パンテックス・プラントで取材したのが最初でした。当時、パンテックス・プラントでは、まだアメリカ人以外(つまり米国メディア以外)の取材を認めていなかった為、クルーを全部アメリカ人で構成し、先方に無理矢理、了承させた記憶があります。

「ザ・スクープ」の常駐スタッフとしてあの独特な雰囲気のスタッフルーム(…少なくとも私はそう感じていました。スタッフ個人が妙に独立していると言ったら良いのか…)にいたのは、一時数ヶ月抜けた事はありましたが、1994年2月から2000年5月まで。今にして思えば、しんどいながらも密度の濃い日々であったと感じております。

その間担当した特集の中で印象に残っているものを幾つかあげると、一つは阪神淡路大震災関から1年という区切りで報道した"空中消火問題"。ポイントを「どうして空からは一滴の水も撒かれなかったのか?」という一点に絞って取材を進めた所、案の定、そこには自治省や兵庫県、神戸市消防局の「前例主義」、「自己正当化の為なら平気で嘘をつくという現実(ロサンゼルス消防局では市街地での空中消火の実績があったのに、日本という国の担当者たちは映像での証拠を突きつけられるまで"世界的に市街地での空中消火の実績はない"と言い続けていた)」、及び「個人で責任は負いたくない。もし責任を負う場合でもみんなで…」という役人特有の「事なかれ主義」がありました。「私が自治省の担当責任者でいる間には、次の大地震は起きて欲しくない」と言ったある高官の言葉は今でも忘れません。また、使う人間とその使用方法によっては「想定外」という言葉が責任を回避する上で便利な言葉に成り得るというのを教えられたのも阪神淡路大震災の取材においてでした。…無論、その経験は約2年ぶりに「ザ・スクープ」で担当した"予見されていた9/11の悲劇、米国政府がついた嘘に迫る"で生かされることにはなりましたが…。

その他にも「ザ・スクープ」の財産を受け継いだ形で長期取材が"今も続行中"の「東洋医学の奇跡、ルーマニアの小児エイズ患者の記録」(これはチャウシェスク政権崩壊で明らかになった悲惨な小児エイズ患者の実態を伝えた「ザ・スクープ」の報道を、谷美智夫という一人の医師が見た事がきっかけになっていました)、
バブル崩壊後の"空白の10年"を「ザ・スクープ」の歴史と共に検証した「弾丸なき(経済)戦争」など数え上げればきりがありませんが、その全ては当然、「ザ・スクープ」という最高の舞台と鳥越さんという"あくまで現場にこだわる"類い希なキャスターの存在があってこそでした。

今後は、週一の放送から年に数本の「ザ・スクープ・スペシャル」という形に変更されるという話を聞いていますが、多くの方々によって築き上げられた「ザ・スクープ」の精神は不滅であると信じております。今後も機会があればその一端を担えられるような存在でありたいと考える次第です。




本当に終わってしまうんですね、ザ・スクープ。
ザ・スクープの制作に参加して5年、これまで様々な事件・事故を取材してきました。インターネット犯罪、ストーカー事件、和歌山カレー事件、JCO臨界事故、そして一連の警察不祥事…。そのほか、アフガンなど海外取材を入れると数え切れません。今こうしていると、いろんな取材現場の思い出が脳裏によみがえってきます。
中でも一番心に残る、いや決して忘れられないのが埼玉県で発生した「桶川女子大生殺害事件」(シリーズ7回放送/2000〜2002年)です。ザ・スクープの報道によって警察の嘘が暴かれ、社会が動き、そしてストーカー規制法が成立したのです。改めて調査報道の重要性を認識した事件でした。

私はいわゆる『スクープ』というものの定義をこう考えています。時間の経過とともに明らかになることはスクープではない。ほっておいたら永遠に埋もれてしまう、または封印、隠蔽されてしまうであろう事実を地道に掘り起こし、報道する。これが『スクープ』だと考えています。言葉にするのは簡単なことですが、実行するとなると相当なエネルギーと執念といったものがなければできません。

桶川事件における鳥越キャスターの執念は大変なものでした。鳥越さんは見た目には大変若く見えるのですが、取材当時すでに還暦を迎えており、30代後半だった私とは、まさに親子ほど年が離れていました。しかしながら鳥越さんの行動力は大変なもので、一緒に取材をする私のほうが圧倒されてしまう程でした。桶川事件のとき彼は足を骨折していて、まともに歩けないのに杖をついてまで現場へ行くのです。誰が止めても聞く耳は持ちません。そして、決まり文句は「絶対に許せない!」
この人のエネルギーは大変なものだなと驚き、感心するとともに、この人は日本のジャーナリズム界の宝だななどと思いました。

桶川報道は、そうした鳥越さんの執念と事件の犠牲者、猪野詩織さんのご両親の気持ちがひとつになって実現し、結果、世の中を動かしたのです。一番身近でその様子を目撃した私は言葉には出来ない多くのことを学ばせて頂きました。
残念ながらザ・スクープは終わりますが、番組で学んだことは何一つ無駄にすることなく今後の取材活動に生かしてゆきたいと考えています。視聴者の皆様、今までありがとうございました。
最後に、もしもザ・スクープが復活することがあれば…、そんな望みを心に秘めつつ、私からのメッセージを終わらせていただきます。




私がディレクターとしてテレビ番組を制作しだしたのが今からおよそ17年前。
当時は職業としてただ漠然とテレビ番組を制作していたのですが、何作かの番組の演出をしているうちに『人』に興味を持ち始め、以来「ヒューマンドキュメンタリーをモノにしたい!」と活動の場を情報系の番組から報道系の番組に変え今日に至ります。そして平成不況の真っ只中で会社を設立。小さな会社の制作現場はいつも色々な放送局の報道現場での特集企画でした。地道に作品を世に出して「いつかはテレビ朝日のスクープで!」と何回も企画を出してはボツになる日々を重ね2年。ようやく「これは!」と言う作品でザ・スクープのスタッフと作ったのが『検察の裏金』でした。去年から今年に掛けて2年がかりで元大阪高検公安部長の三井環被告を口説き落とし、やっとの事で現役検察幹部の口から《裏金作りの真相》を撮影できる日が訪れたとき目の前に暗雲が…。そう皆さんご存知の『三井公安部長の逮捕劇』です。

以降、あらゆる角度から、今回の逮捕劇が『口封じ』目的の「不当逮捕だ!」として全面的に検察権力と闘ってきました。3回に渡る放送でOBや現役を問わず検証した結果、確かに『検察内で裏金を作っていた』と言う事実もつかみ「さあ、これから!」と言うとき、そう『検察の裏金3』を放送した翌日に、三井さんの奥様から携帯に連絡をいただきました。その内容は「ザ・スクープは9月で打ち切りになるのですか?」と言うものでした。まさに寝耳に水!
「良く調べてからお知らせします」と電話を切った後に情報の収集に追われましたが「どうやら本当の事なんだ!」と分かったのが週明けの月曜日でした。この頃は電話やメールでマスコミ関係者から色々連絡をいただき、中には「検察の圧力?!」とまで思われていたようでしたが、今となってはテレビ朝日の発表を信じるより他はありません。しかし、私にしても他のスタッフにしてもこの打ち切りは本意ではありません。時間をかけて事案を検証するザ・スクープのような番組はいつの世にも必要なのです。

レギュラー番組としての『ザ・スクープ』は終了しますが、放送した作品の何本かは未だに真相が究明されていないものもあります。私の手懸けている『検察の裏金問題』もその一つです。しかし、番組放送中に鳥越キャスターが(2002年8月3日放送)お伝えしたように、この問題は元大阪高検公安部長の三井環被告の裁判の過程をウォッチしながら『ザ・スクープスペシャル』として不定期ですが放送していきたいと思っています。
近い将来においてレギュラー番組として『ザ・スクープ』の復活を望んでやみません。




雑誌のデータマンをしていた私に、人を介して鳥越キャスターから「テレビ朝日の報道番組ザ・スクープでリサーチャーの仕事をしないか?」と誘われたのは、1989年夏でした。テレビ局勤めの知人に相談をすると「まあ、その様な番組は、2クール(半年)で終わるから、経験だと思って受ければよい」と言われ、ザ・スクープでの仕事を始めました。そして、番組は、共産主義の崩壊、湾岸戦争、日本型社会(政治・経済・安全神話)の崩壊等々世紀末の事象からテロ等の新世紀の混乱を調査検証してきました。

ザ・スクープは、基本的には、一つの企画で約30分のVTRを製作するため、関連ニュースを繋げるだけでは、番組として成り立ちません。「何千人死亡」、「何百人リストラ」、というタイトルが、各マスコミで踊る中で、ザ・スクープの取材の全ては「人間ドラマ」にこだわったものでした。また、その取材はディテールに力が注ぎ込まれます。一人の人、一言の言葉、一枚のメモ、そのような事実を積み重ねることにより、スタッフ全員が少しでも真実に近づく努力をしています。

例えば--「外国人のえん罪事件」を取材した時、Fディレクターが「事件にカリッドさんというパキスタン人が関わっている。西新井に住んでいるらしい」という情報を持ってきました。当然、私に「西新井のカリッドさんを探して」と依頼があります。「この人はバカか」と思いましたが、大まじめなFさんの顔を見て、一ヶ月弱、西新井周辺で外国人を見ると「カリッドさんというパキスタンの人を知りませんか?」と聞いて回りました。結局、バカは私の方でした。--という、各ディレクターからも「○○を探せ」という取材が多かったです。しかも、わらの中から針を探す方がとても楽だと思われることも何度かありました。大抵の場合、目的には達しませんが、この様な取材は決して無駄にはなりません。カリッドさんの件では、日本のパキスタン人社会が見えてきます。当然、それはVTRやコメントに活かされる結果となります。私の場合は、そこに「ザ・スクープのリサーチャー」としての役割を見いだすことができ、気が付くと13年ということです。

2002年9月28日の放送でザ・スクープは幕を引きました。
長野智子さんとは2000年春の有珠山噴火の取材が、初めての関わりでした。その後、日産自動車のカルロス・ゴーン改革は2年間取材を続けました。現場での行動力、そして、打ち上げでの歌唱力には舌を巻きました。
ザ・スクープに誘って戴き、また、最終回までずっと一緒に取材をしてきた鳥越キャスター、「二十代後半から厄年になるまでの人生を返せ」ではなく、今後もよろしく御願い致します。
しかし、2001年9月11日の同時多発テロ、拉致事件を認めた朝鮮民主主義共和国、メディア規制三法等、ザ・スクープが取材しなくてはいけないテーマは多いです。視聴者の方々の支援応援も受けています。私自身も、ザ・スクープの復活を信じております。




第1回から最終回までずっとこの番組に関わっていたのは、鳥越さんとリサーチャーの堀さんと私ぐらいになりました。これだけ長くやっていると、一番思い出に残ることと言っても、多すぎてひとつをあげることは難しいものです。
何人ぐらいのスタッフがいたのか数えてみたら、社員だけでも約40名・外部スタッフやADさん達を入れると100名以上でしょう。
私はタイム・キーパーという職種なので、他にも関わる番組もあり、大体の放送予定は知っていても、急な変更等はOA当日になって知ることが多かった。

当日スタッフルームに入った時の雰囲気で、状況が大体わかる。
みんな出払ってがらんとした室内に、資料や夜食のあとがあちこちに散乱・・・これは相当追い込んでいるかな?その週に何か大きな事が起きると、かなりの確率でそういう状況でした。
不安は的中し、事前のVTRチェックもできないまま放送開始・・・その段階でも全てのVTRが到着していない事なんかもしょっちゅうで、「○○分までには編集室を出るように言って下さい!」と放送中にVTRの搬入の催促をした事も数え切れません。

ザ・スクープという検証報道番組の性格上、スタッフは殆どが取材やVTRを作るスペシャリストであって、いわゆる放送業務にはややうとい人が多かったのが唯一の弱点であったかも知れません。ザ・スクープは毎回生放送なので、その辺のフォローをするのが私の役目でもありましたが、身が縮む思いをしながら綱渡り同然のOAをこなしていった事でした。最近は現プロデューサーの原さんの性格もあるのか、ほぼ落ち着いた放送ができており、あのドタバタ時代を懐かしく思ったりする反面、どうして今のようにできなかったのか?疑問が沸いてきます。
ただそうやって総力戦で作ったものが、この2?3日で急遽テーマを変えて作ったとは思えない水準にあることが多く、ザ・スクープのスタッフの底力を誇りに思ったものでした。

オウムや神戸の地震や連続殺傷事件など、長期に渡って多くのスタッフが入れ替わり立ち替わり取材に入り、それぞれの個性を出した切り口の作品もおもしろかったし、それまで余り取り上げられていなかったダイオキシン等の追求も、忘れられないテーマの一つです。最近では桶川の女子大生殺人事件が印象深いものとなりました。

ザ・スクープの雰囲気をひと言で言うと、一癖も二癖もあるいろいろな個性の持ち主が集まった大きなファミリー。それをファミリーとしてまとめているのが鳥越さんのお人柄だと思います。
スタッフの中では一番視聴者に近い立場であった私は、この番組の最初から立ち会えたことを自分の財産であると思っています。放送局の良心として視聴率に関わらず継続すべき番組であり、近い将来又ザ・スクープが再開される事を信じているので、最後という言葉は使いたくないなというのが今の心境です。
また皆でやりましょうね!!




自分にとって初めての番組がこの"ザ・スクープ"でした。スクープの歴史の中では、ほんのわずかな時間でしたが、多くの事を学ぶことができました。番組が終わるのは本当に残念ですが、スクープでやって来た事はこれから先も自分の中で生き続けると思います。本当にありがとうございました。



 スクープは私にとって初めての生番組でした。特にフロアの事が分からず、「タリ」って何?「バミル」って何?オンエア当日はそのたびにヒヤヒヤしてました。
 そんな私にも、一つの「巡りあわせ」がありました。「愛媛誤認逮捕事件」です。かつてスクープに企画を持ち込もうとしてボツになり、でも気になっていた事件で、まさか2年経ってスクープで取材に入れるとは思ってもいませんでした。
 冤罪事件や警察捜査のあり方、司法の行方…、このようなテーマをじっくり扱えるのはスクープならではと思います。番組は変わっても、スクープで感じたことを忘れずに現場に臨みたいと思います。