月曜日

石原良純が人生を豊かにする趣味・生きがいを提案

放送日 2017/01/09

幻の“京都大仏”の痕跡をたどる…京都ミステリー散歩

かつて京都にあったという“日本最大の大仏”の謎に迫る散歩

今回の良純未来図は“京都ミステリー散歩”と銘打って、かつて京都にあったという「日本最大の大仏」の謎を探ります。京の町のどこに、いったい誰が、果たして何のために大仏を造ったのか? その秘密に迫る石原良純さんを案内してくださるミライビトは、日本の文化財について研究されている「京都産業大学 日本文化研究所」の上席特別客員研究員・二村盛寧(ふたむら・もりやす)さんです。

京都大仏に由来する“正面通り”と、裏手に大仏殿のあった“豊国神社”

豊国神社(とよくに・じんじゃ)
住所/京都市東山区大和大路正面茶屋町
TEL/075-561-3802
拝観・開館時間/9:00~16:30
・宝物館
料金/大人300円

二村さんとの待ち合わせ場所は、その名も「正面通り」。付近には、鴨川にかかる「正面橋」という橋もあります。これらの名は、二村さんによれば「大仏の正面にある」という意味で付けられたものなんだとか! さらに、正面通りを進んで行くと「大仏前郵便局」や「大仏前交番」などの施設や、“京大仏”の焼き印が押された「大仏餅」という和菓子までありました。

やがてたどり着いたのは、豊臣秀吉を神として祀(まつ)っているという「豊国(とよくに)神社」。そう、幻の京大仏とは今からおよそ400年前、現在の豊国神社の奥に、天下人(てんかびと)・秀吉が建立(こんりゅう)したものなのです!

豊国神社の門は、桃山時代に造られ、「伏見城から移築されてきた」という説もある国宝の唐門(からもん)です。そこには鯉(こい)が彫刻されていますが、これは「鯉が滝を登って竜になる」という“登竜門”の伝説にならっているんだとか。「鯉が竜になるのに匹敵するような出世をとげた秀吉の神社であるから、それにちなんだ門を正面に据えたのだろうと思います」と二村さんは教えてくださいました。

石原さんたちは唐門を抜け、豊国神社の本殿に到着しました。その裏手にかつてあったのが、大仏の鎮座する「大仏殿」です。そこは「方広寺(ほうこうじ)」という「秀吉が大仏を祀る為に造った寺」だといいます。

かつて境内に日本最大の大仏殿があった“方広寺”

方広寺(ほうこうじ)
住所/京都市東山区正面通大和大路東入茶屋町527-2
TEL/075-561-1720
拝観/9:00~16:00

方広寺の大仏殿は、幅が約90m、奥行き50m以上、高さも50m近くあったそうで、「奈良・東大寺の大仏殿よりも大きかった」のだとか! 世界でも1位、2位を争うほどの巨大木造建造物が、かつてこの地にあったわけです。方広寺の大仏殿は東大寺と同じく「外から大仏の顔が見える設計」だったといいます。

二村さんによれば「方広寺の境内には“巨大な大仏殿の名残り”が現存している」のだそうです。そのひとつが「礎石(そせき)」と呼ばれる「建造物の基礎となる石」。この大きさを見れば、そこに乗っていた柱のスケールが想像できます。他にも「石畳の床に使われていた花崗岩(かこうがん)」が残されています。

さらに奥へと進んだ石原さんたちは、現在は緑地公園になっている「方広寺大仏殿跡」へ到着しました。かつてはこの場所に「直径32mの台座上に鎮座する、高さ18mの京都大仏があった」ということが、17年前の発掘調査で判明しているそうです。

秀吉が京都に大仏を造ろうとした理由とは?

それにしても秀吉は、どうして京の町に大仏を造ろうと考えたのでしょうか? その手がかりを求めて訪れたのは、秀吉ゆかりのお宝が並ぶ「豊国神社の宝物館」です。秀吉が使っていたという「悪夢を食べるといわれる動物・獏(ばく)の形をしたマクラ」や「鯛(たい)の形をした食器」など、貴重な品が並んでいます。中でも珍品中の珍品が“秀吉の歯”。「62歳で亡くなる2年ほど前に抜けた、秀吉の左上の奥歯」と伝えられているそうです。

秀吉の死後、七回忌法要の際の様子を描いたという「豊国祭礼図屏風(とよくに・さいれいず・びょうぶ)」には、大勢で輪になって法事をひとつの“祭り”のように捉えている京の町人たちの姿が見られます。秀吉は京都の町衆の間で人気が非常に高かったそうですが、その背景には「天正地震」という天災があったといいます。地震によって京の町が壊滅状態になった時、人々の不安な心を救済するべく、秀吉は京大仏を建てたのだそうです。

4度作られた“京都大仏”と、今も秀吉が京を見守っている“豊国廟”

京都大仏は江戸時代には「京都を代表する観光名所」となったそうですが、そんな人気スポットがどうして現在は無いのでしょうか? 実は京都大仏は合計4回も建造されましたが、全て倒壊や焼失をしてしまったのです。

秀吉の作った“初代京都大仏”は再度襲ってきた地震によって倒壊。その後、秀吉の息子である秀頼(ひでより)が“2代目”を建造したのですが、大仏と一緒に造った釣鐘(つりがね)が豊臣家の滅亡につながってしまいました。鐘に刻まれた「国家安康(こっか・あんこう)」の文字に、徳川家康が「家と康の間に文字を挟み、自分の名を引き裂いたのはけしからん!」と難癖(なんくせ)をつけてきたのです。このトラブルが後の「大阪の陣」につながり、豊臣家は滅ぼされてしまったのです。

秀頼の造った“2代目京都大仏”は、大阪の陣のおよそ50年後まで建っていたそうですが、今度も地震で倒壊。その後に造られた“3代目”は“落雷”によって焼失してしまったそうです。最後となった“4代目”は、実は昭和48年(1973年)まで建っていたのですが、これも火事で燃えてしまったのだといいます。

石原さんたちが最後に向かったのは、秀吉の墓である「豊国廟(ほうこくびょう)」。そこへ到達するには、565段もの石段を昇らなくてはなりません。息をきらせながら階段を昇りきった石原さんは、ついに秀吉が眠る高台へ到着できました。そこは京の都を見下ろせる場所で、こちらに墓を設けたのは秀吉の遺言に従ってのことだそうです。

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