1月5日

スタジオ : 吉澤一彦アナウンサー
松尾由美子アナウンサー
ゲスト  : 黒柳徹子 氏



【放送内容】


2003年、今年でテレビ放送は50年を迎えます。
今回は、放送開始当時から第一線で活躍されている
「黒柳徹子さん」にお話を伺いました。

テーマは「テレビの過去・現在・未来」。

黒柳徹子
生まれは、東京・乃木坂。
小さい頃は「トットちゃん」の愛称で呼ばれ、個性豊かな幼少時代。
父は、音楽家。早くから芸術に親しみ、音楽大学に入学。
卒業後、NHK放送劇団に入団。ラジオでデビュー。
NHK専属のテレビ女優「第一号」となる。
その後、アメリカにて演劇留学、帰国後「現場復帰」し、現在に至る。

【NHK放送劇団 入団のきっかけ】

大学を卒業する頃にするべき「就職活動」をしていなかった。
自分の希望???と考えた時、「いいお母さん」になりたいと思った。
何かできるいいお母さん???「絵本を上手に読むことのできるお母さん」に
なろうと思い、母親に相談。
母いわく「新聞に載っているんじゃない」と言った。
その言葉で新聞を開いたところ「NHKの専属俳優募集」の記事があり、
「NHK」ならば「絵本の読み方をおしえてくれる」と思い、応募。
結果、6000人応募の中の「13人の合格者」に残る。

1954年、NHKラジオドラマ「ヤン坊・トン坊・ニン坊」で本格デビュー。



【テレビ創成期】


始まったばかりのテレビの現場はすごかった。
当時は「VTR収録」はまだなく、すべてが「生放送」。
その為の「苦労」も「失敗」もいろいろとあった。

「生放送ドラマ」での失敗
ストーリーの中で、刑事が犯人を逮捕し、手錠をかけた。
しかし、その後「手錠の鍵」が見つからず、仕方なくそのままドラマは続行。
犯人が映ってはいけないシーンでは犯人が隠れ、
犯人だけのシーンでは刑事が隠れ…とドラマを進めていった。
しかし、どうしてもシーンとしておかしくなり、ドラマは進行できなくなった。
そのとき、 画面いっぱいに「終わり」の文字フリップを出し強制終了した。
俳優自らが「終わり」の文字フリップを出して強制終了をすることが多々あった。

「衣装」での苦労
生放送ドラマでは、何重にも衣装を着ていたため俳優さん達が
「着ぶくれ」していた。

「VTR」導入
「生放送」から「VTR収録」になった。しかし、VTR収録中は、
途中で「切ること」も「止めること」もできなかった。
つまり、編集をすることが出来なかったため、頭から生放送と同じに収録していた。
そのため、最終近くで「NG」をだすと始めから「撮り直し」になり、
出演者たちは緊張の連続だった。



【白黒テレビからカラーテレビへ】

カラーになり、食べ物など作り物を使用するような「嘘」が
つけなくなったために「本物」が用意されるようになった。
しかし、カラー放送は、照明が強く、スタジオ内の「暑さ」は異常だった。
生花などからあっという間に水気が飛び「水蒸気」が上がっていくのがわかった。
据え置きの金属などは、触ると「やけど」をしてしまうほどの暑いスタジオだった。



徹子の部屋

1976年2月2日スタート。
第1回目ゲスト:森繁久弥さん。
2003年今年、放送は28年目を迎え、
出演ゲストは4000組になろうとしている。

「番組誕生秘話」
当時、テレビ朝日の局長がたまたま黒柳さんのラジオ番組を聞いていた。
内容は、1人の人から「毎日20分間・1ヶ月間」話を聞く番組。
その番組がきっかけとなり、テレビでもゲストを呼び話を聞く番組を企画。
番組は始まった。

「印象に残ったゲスト・話」
番組を続けていく中で良く聞かれる「質問」。
しかし、「これが一番印象深い?」という答えをしてこなかった。
それが「長寿番組」として続けてこられた秘訣ではないかと思う。
1回のみのゲストもあり、数回出演のゲストもあり、
企画レギュラーの方もあり…と様々なパターンがある。
ゲストの話題の中で「一番」興味があるのは、「戦争」。
これは、いろいろな方からの体験を「戦争を知らない世代・時代」に
「伝えること」がテレビの1つの役目だと心から思っているから。

ユニセフを取り上げる」
番組の中で何度となく取り上げている。
「世界の子供達の現状を知る」このことも重要な事だと思っている。



【テレビとの関わり】

テレビに初めて映った時、それを見た母の感想は「狐のお面をつけていたの?」
…だった。画面は、白黒で細長く強調されていたせいもあり「狐」のように
映っていたらしい。
そんな時代から比べ「今」、技術の進歩は著しい。
そこに「内容」がついていっているか?ということを思う。
未来を考えると、子供達には「良質なもの」を送っていきたい。
テレビ放送開始当初に「命をかけて」仕事をしてきた人達が
この世界には、いっぱいいる。志半ばで亡くなった方達もいる。
気持を受け継いで、自分も全力を尽くしているつもりである。

テレビ界に入ったばかりの頃、テッド・アレグレッティ氏の話を聞いた。
「テレビは大きな影響力を持つメディアになるだろう」
「世界を変える力を持つだろう」「良質な教育番組をつくりなさい」…というよう
な内容だった。
これらの話から、
もし、自分に子供がいたら、「見せられる番組か?否か?」ということを
基準に「出演番組」を決め、今までやってきた。

テッド・アレグレッティ氏(アメリカのテレビ演出家)
日本での番組作りのノウハウを指導1952年から1年3ヶ月滞在。

「紅白歌合戦での手話」
当時は、「手話」があまり知られていなかった。
聴覚障害者の人たちも人前で「手話」をすることを好まなかった。
しかし、自分は「手話」を多くの人に知ってもらいたかった。
そこで司会進行の中で1度だけ「手話」を使った。
画面上で「手を動かしている自分」を見て、子供達が興味を持ち、
「手話」というものを知ってほしかった。
つまり、テレビという、大きなメディアの中で伝えることに意味があった。

「視聴率について」
あまり気にしていない。
世の中が「見たい」と思っているものを伝える必要も有る。
つまり、視聴率が高くなる。
しかし、そのほかにも、「知ってほしいもの」「伝えておく必要がある」ものも
ある。それは、視聴率が高くならなくても放送するべきことだと思う。



【テレビへの提言】

テレビは、多チャンネルに向かっている。そして、変化していく。
しかし、人の心の中は「今も昔も」そんなに大きく違ってはいない。
「大切に思うモノ」「寂しく思う気持ち」…
そう考えると「人の心に訴えるモノ」にそんなに大きな変化はないと思う。

制作者への要望として「子供達が見る番組」を丁寧に創ってほしい。
純粋無垢な子供に何を見せるか?この事は「大人の責任」。
「大切なこと」を幼いうちに伝えられる作品を…。
進むことも大切だが、昔ながらのいい部分も忘れずに。

テレビは「世界を変える大きな力」があるのもしれないが、
他の役目として、「毎日の生活」「子供達の豊かな心」「身近な幸せ」を
作るために貢献できるメディアでもあるべきだと思っている。
これからも「自分の信条」を持ち続け番組制作に携わっていきたい。