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2009年2月16日

#10「会社を死守せよ! 〜倒産列島ニッポン〜」 編集後記

 今回の取材後記では、創業130年の老舗企業「大仙」について取り上げます(絨毯卸のテクスインテ編は目下、田中ディレクターが取材継続中です)。

 大仙の創業は明治10(1877)年。西南戦争で西郷隆盛が自決したのがこの年の出来事ですから、ちょっと想像がつきません。帝国データバンクの“刑事コロンボ”角田さんが訪ねた約6000件の中でも一番古い会社だそうです。そもそも、帽子自体が、文明開化をきっかけに日本に入ってきた西洋文化です。江戸時代は、ちょん髷姿だったわけで、この時期に創業した大仙の歩みは、日本の帽子文化そのものでもありました。


植村ディレクター(左端)

 今回、その大仙の最後の瞬間を取材していて、気づいたことが2つほどありました。 まず、ひとつは、日本の流通業界には今も“弱肉強食”“中央集権”の嵐が吹き荒れていて、そのことが結果的に日本経済の足腰を弱めているのではないかということです。かなり以前から、“問屋不要論”は唱えられてきましたが、今回、気にかかったのは大仙の取引先である帽子メーカー、小売店の存在です。大仙のような卸問屋が消えていくことは、商品を納めていたメーカー、問屋から商品を仕入れていた街の帽子屋さんにとっても重大な出来事です。問屋=“中抜き”の良くないイメージもあるかもしれませんが、その一方で、街の小売店と共存してきたのも問屋です。かつて一定規模以上の地方都市には必ずといっていいほど、問屋街があり、中心部には小売店が商店街を形成していました。しかし、今や、地方都市はどこも青色吐息です。

 ノスタルジーに浸るつもりはありませんし、流通手段の変化、企業努力の問題もあるでしょう。しかし、街にお店がない以上、経済危機以来、与野党が唱えている内需拡大の声は虚しく響きます。問屋というのは、長年の地域経済発展の共存共栄の知恵であったのかもしれません。大規模スーパーが栄えて、地方経済が衰える現状を見ていると、小さなメーカーと小さな小売店を結ぶ問屋の意義をもう一度、考えてみる必要があるのかもしれません。


2月上旬、ほとんど空になった「大仙」の1階

 もうひとつが、これは希望の部分にあたると思いますが、そうはいっても大仙には7代目の晃浩社長という「後継者」がいたことです。不況で、倒産、廃業が相次いでいますが、それ以前に中小企業の経営者が長らく悩んできたのは「後継者不足」です。後を継ぐ人がいないことを理由にした廃業は、かなりの数に上っているといいます。人がいてこその会社です。若社長の様々な改革、具体的にはインターネット等を駆使した「在庫を持たない会社への変身」は結果的に実を結びませんでしたが、倒産を回避し、銀行に借金を返済、取引先にすべての支払いを済ませ、従業員にも退職金を支払うことができるようになりました。間近で廃業の清算作業を見ていましたが、決して楽なものではなく、すさまじいエネルギーを伴うものでした。しかし、これも若き後継者がいたからこそ出来たこと。父親の浩一会長も「自分がやっていたら、間違いなく倒産していた」と話しています。
大仙という会社はなくなりますが、若社長は別の会社で父親が立ち上げた自社ブランド「ゼロ・クウォーター」の復活を目指しています。会社の魂だけは後継者にしっかりと引き継がれたと言ってもいいのかもしれません。

 最後に、決して“いい話”ではないこの放送に、実名、顔出しで取材に応じていただいた皆さまにこの場を借りてお礼を申し上げるとともに、私と同世代の晃浩社長の新たな出発にエールを送りたいと思います。

(ディレクター 植村俊和)