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Vol.34 「ぴかぴかのやかん」 (2006/05/13)

「もう、ここに来ることはないねぇ…」

引越しを控えた私の部屋を出る時、大きなバッグを抱えながら、父はぼそっと言った。上京するのはよほどの時で、ちょくちょく私が実家に帰省することはあっても、この部屋には数回しか来たことがない。

大学生の時は、出張の折にスーツ姿でやって来た。
夕方からのアルバイトの前に、近所の定食屋さんで、二人でカキフライを食べたこと。
カキフライは父の大好物だったのに、私は父の分までぺろりと食べてしまった。
翌朝、会議に出席する父と一緒に家を出て、私たちの関係を訝しがる周囲の視線の中、駅前のコーヒー店で朝食をとった。
自宅で目玉焼きを焼くなどという選択肢は、当時の私にはなかった。

たった一度だけ、母に内緒で来てくれたことがある。
当時、ひどく落ち込んでいた私の痩せこけた様子を画面で見たのだろう。
だが、突然の訪問に戸惑うあまり、無下にも父を玄関先で追い返してしまった。
「お父さんが出て行かないなら、私が出て行く!」
そう言って、部屋を飛び出した。
しばらくして帰ったら既に父の姿はなく、台所のやかんがぴかぴかに磨かれていた。それを見た途端、自分がしてしまったことを猛烈に後悔した。

部屋に、父が来る。
滅多にないことだったが、いつもそわそわした。何を話していいのか分からなかった。

趣味があるわけではない。
ゴルフもやらないし、お酒も弱い。
腰が悪いので、車の運転はしない。
夜のニュースを欠かさず見て、メガネと目覚まし時計を枕元に置いてから眠る。
「翌朝のセットが楽だから」と、必ず整髪料をべったりつけてから布団に入るので、母に「枕が汚れるでしょう」と毎回咎められている。

先日、私は結婚した。
姓が変わり、住居も変わった。
そんな中、今まで暮らした部屋の荷造りを手伝ってくれるため、久しぶりに父がやって来た。

「後ろから見たら枯れ枝みたいだから、ちゃんとご飯を食べなさい」
心配そうにそう言うが、還暦を過ぎた父の方がよっぽど痩せている。

もう、ここに来ることはないねぇ。
古くなったあのやかんを買い換えたことは、何となく言い出せなかった。
でも、今度は、新しい家に招待するから。
ぴかぴかのやかんで、胃の弱い父にはアメリカンコーヒーを淹れようと思う。


(「日刊ゲンダイ」5月13日発刊)
   
 
 
    
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