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Vol.14 「金曜日のタクシー」 (2005/02/26)

「お客さん、犬は好きですか?」
金曜日の夜、山手通りをタクシーで走る。
滲んだ電飾をぼんやり見つめていると、ふいに運転手さんから声をかけられた。

「これ、うちのチビたちなんだけど…」
遠慮がちに、小さなアルバムを渡された。
開いてみると、寄り添う犬と猫のスナップ写真がスクラップされている。
以前、犬と猫は仲が良くないと聞いたことがあった。
「普通はケンカするんだけど、うちのは変わりもんでさ」
最初に飼っていたのは、犬だけだったそうだ。
だが、一匹だけで留守番させるのは忍びないからと、
思い切って新しいパートナーを連れて来たという。
「そしたら、すぐに仲良くなっちゃってさ」
車内灯を付け、前を向いたまま、運転手さんは楽しそうに話し続ける。

なんでも、夕方5時から翌朝5時までの勤務中、休憩は一切取らないそうだ。
「全然、休まないんですか?」
「付け待ちの間に一服する時間が、休憩みたいなものだねえ」
駅や繁華街で止まって乗客を待つことを、「流し」に対して「付け待ち」というらしい。
タクシーの規制緩和により、台数は増え、価格設定も自由になった。
値下げ競争が激化する中、運転手の給与は歩合制のため、
値下げはすぐさま収入に跳ね返る。
「休んでる時間はないんだよなぁ」と、運転手さんは笑った。

アルバムをめくるうちに、
二匹を抱いてスクーターに腰掛けた運転手さんの笑顔が目に留まった。
セルフタイマーで撮ったのだろうか。
ピントが、正面からだいぶ外れている。

「あ…僕ね、奥さんには、逃げられちゃったんだよ」
目的地の近所になって、運転手さんは思い出したように言い足した。
急に、気持ちがぐらりと揺れた。
先程飲んだ、カシスオレンジのせいだけではない。
「領収書、どうします?なんだか、無駄話に付き合ってもらっちゃったな」
「いえ、大丈夫です。あ…電気、付いたままでしたね」
お釣りを渡す時に初めて後ろを振り向いた運転手さんは、写真よりも随分と歳をとって見えた。

タクシーを見送りながら、考える。
あのアルバムは、乗客の誰しもに見せているのだろうか。
一週間の仕事を終えてちょっと疲れた様子の、私にだけ見せてくれたのだろうか。
運転手さんには「ただいま」という相手がいる。
私は、このまま無言で帰宅する。
牛乳、切らしていたっけ。
明るすぎるコンビニに寄ってから帰ろうと思った。


(「日刊ゲンダイ」2月26日発刊)
   
 
 
    
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