前の記事を読む 次の記事を読む  

トップ > パーソナルトップ > プロフィールトップ > エッセイバックナンバー
 
 
8月4日   北京五輪をより楽しむために Part1
〜体操王子から企業家へ 李寧〜

北京オリンピックをより楽しむために、その1は李寧です。
中国の国民的英雄、体操王子と呼ばれ、その後中国ナンバーワンのスポーツ用品メーカーを作った人のお話です。私は彼の演技をロス五輪で実際に見ているだけに、思い入れはひとしおでした。中国各地に飛んで李寧の成功を支えるものを探ってきました。
7月25日の報道ステーションで放送されたものをベースに書き起こしました。
*******************************************************************

宮嶋:「 北京五輪が近づいてきました。この人を語らずして中国のスポーツを語ることはできないでしょう。」


宮嶋泰子


今から24年前のロサンゼルスオリンピック、
中華人民共和国となってから、初めて参加したこのオリンピックで、
大活躍をした選手がいます。



実況:「さあフィニッシュはムーンサルト 李寧、見事な演技です!」

体操競技で10点満点を連発し、種目別のゆか、あん馬、吊り輪の3つで金メダルを獲り、中国国歌を世界中にとどろかせた人、それが李寧でした。



李寧 Li-Ning

のちに、マイケル・ジョーダンや、モハメド・アリとともに
「20世紀のもっとも偉大なスポーツ選手25人」に選ばれた李寧。

李寧は引退後、スポーツ用品メーカー「リーニン」を立ち上げ、国内のみならず、海外にも進出し 年間30%の成長率で急速に発展してきました。



北京の繁華街、王府井(ワンフーチン)。
ナイキ、アディダス、カッパ、ミズノなど外国のスポーツメーカーが、中国13億人のマーケットを狙って軒を並べています。
その中で活気づいているのが、リーニンです。

 

リーニンが支持される理由を聞いてみました。
「われわれ中国人のブランドだから選びました。」
「中国人だったらリーニンを選ぶのは当然です。」
「リーニンのイメージは中国そのものですもの。」

リーニンは中国人の愛国心に支えられて成長してきたのです。

 

今はリーニンカンパニーの会長となった李寧さん。スポーツ界から突然ビジネスの世界に転身した理由を聞いてみると そこにも中国人の愛国心が深く影響を及ぼしていたのです。

 

1980年代、中華人民共和国が世界にその存在をアピールし始めた時期、
李寧は1982年、ザグレブで行われたワールドカップで、7つのうち、6つの金メダルを取るという前人未到の偉業を達成。

さらには日本の具志堅らと競い合ったロサンゼルスオリンピックでの大活躍などから、21歳にして国民的英雄となり、「体操王子」とまで呼ばれるようになりました。
誇るものが少なかった時代の中で中国の国民に自信と勇気を与えた英雄となったのです。




具志堅幸二          李寧


しかし、すべてが崩れたのはソウルオリンピックでした。
エースのいない中国チームのまとめ役として25歳で出場したこの大会。

実況:「おなじみの顔李寧が入場してきました。25歳になった李寧…」

李寧は跳馬、吊り輪と立て続けに、体操人生で最も大きな失敗をしてしまったのです。
これによって団体では日本が3位に上がり、中国は4位に転落。
国民からは非難の声が沸きあがり、帰国した李寧は身の危険を感じて外出さえ出来なかったといいます。


 

李寧:「88年のソウル五輪で私は失敗の本当の意味がわかりました。だからこそ、思い切って体操界を離れ、社会に出ることを決意したんです。」

ソウルオリンピックの翌年、天安門事件で中国が揺れた年に引退を表明し、どん底から這い上がるように、当時、世間的に軽んじられていたビジネスの世界に飛びこんでいき、27歳で広東省で自分のブランドを立ち上げたのです、

表彰台にあがる中国の選手たちには、中国ブランドのウェアーを着せたい。
その思いがバルセロナオリンピックで実現し、中国企業としては初めて中国チームのスポンサーとなります。
バルセロナ、続くアトランタ、シドニー、アテネと中国選手たちの胸にはリーニンのロゴが踊っていました。


 

中国の経済成長とともに、会社も順調に業績を伸ばし、去年11月に新社屋が完成しました。

宮嶋:「素敵なオフィスですよね、このオフィスの中で800人が働いているそうで、今では2900人が働く大きな会社に成長しました。」

 
 

いいものを手にしたいが外国メーカーのものには手が出ないという中国の中間層にターゲットを絞り、リーニンは急成長を遂げて、今年の株式時価総額では38億6100万ドルとなり、ナイキ、アディダス、プーマに次ぐ世 界4位に躍進したのです。

 

なぜ李寧がここまで成功できたのかを知りたいと、生まれ故郷、広西チワン自治区柳州をたずねました。
李寧自身も少数民族のチワン族です。



両親ともに学校の教員で、小学校の敷地のなかに住んでいたそうです。
当時を知る人に出会うことができました。元教職員組合委員長だった方です。

 

「一家はあそこにくらしていましたよ。とっても貧しくてね、李寧が生まれた時に着せる服もなくて、学校の先生たちが自分の子供の服をあげたほどでしたよ。」


李寧の小学校低学年の時の担任の先生からも話を聞くことができました。

王方教諭:「7歳の時に体操で選抜されて、国から何元かの手当てをもらっていましたが、李寧は自分では使わずにほとんどお母さんに渡していたんですよ。」



確かに、李寧もこう証言しています。
李寧:「14、5歳の頃から、私は家のことをあれこれと親から相談されるようになっていました。」

早く自立させて、しっかり勉強させる、それはお父さんの教育方針だったのです。

父、李世波さん:「少数民族は、昔は都会から離れた所にいて、文化も遅れており、とても苦労しました。子供たちにはしっかり勉強するように言いつづけました。」




少数民族としての誇りが李寧の行動力を後押ししていきました。

*******************************************************************
次のページへ>>
   
 
    
前の記事を読む 次の記事を読む  

トップ > パーソナルトップ > プロフィールトップ > エッセイバックナンバー