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身長
156cm
出身地
富山県高岡市生まれ鎌倉市育ち
出身校
神奈川県立外語短期大学付属高等学校→
早稲田大学第一文学部フランス文学科
入社年月日
1977年4月1日
星座
山羊座

2月25日    この際思い切って書きます。体罰の話

 柔道の内柴選手の強姦事件に始まり、女子代表への体罰問題、さらには桜宮高校の体罰など、このところスポーツを仕事にする者として憂鬱なニュースが続いています。しかし、考えてみれば、こうした機会は、「スポーツっていったい何?」ということを考えるきっかけをくれたように思います。どうやら根は同じところにありそうです。

 1977年、私がテレビ朝日に入社し、最初にかかわった仕事がバレーボールでした。1976年のモントリオールオリンピックの女子バレーボールの金メダリストたちとは今でも親しくさせていただいています。すでに60歳前後の彼女たちがよく昔話をしますが、そこには、体罰というよりも、いじめとしか思えないような実際の話がありました。

 高校時代、髪を後ろから掴まれてそのまま体育館を一周引きずられた話、竹で太ももがミミズばれになるほど叩かれ、痛くて風呂にも入れず、それを見つけた母親が高校に怒鳴りに行った話、監督が投げた大きなガラス製の灰皿が額めがけて飛んできた話・・・聞くたびにぞっとするようなものが多くあります。

 女子バレーはその後、大変盛んになり、高校日本一を決める大会などが注目されるようになりますが、ここでも、とんでもない話をたくさん聞きました。試合結果に怒った監督が選手の上着をびりびりに破って平手打ちを繰り返すという話。こうした監督の中には、かなり名前の知られた方もいらっしゃいます。また、選手は自分に恋心を抱かせるぐらいがいいんだと公言してはばからない男性監督もいらっしゃり、性的虐待にまで発展するケースも少なくありませんでした。しかし、それはすべて泣き寝入りだったのです。

 これは決して過去の話ではありません。現代でもあちらこちらから漏れ聞こえてくる話は昔と大差ありません。ある大学のスポーツ系の学生に体罰をどう思うかと質問したところ、半数が容認派だったそうです。人間は自分の過去を否定したくありません。体罰を受けてきた子供はそれを是として、大人になった時には今度は体罰を行使する立場に立ってしまうのでしょう。

 あるところで、女子バレーボール界の体罰について書いたところ、バスケットもひどい、少年野球もかなりのものだ、スポーツ少年団の中にもひどい指導者がいるなど、多くの声が寄せられました。

 高校時代、同じクラスの女子バスケット部の子が目の周りに青たんを作って授業にでてきていた話。高校時代の体罰で片目の視力が低下し、今でもほとんど見えていないという女子バレー経験者の話。小学校の時には本当に楽しそうにバスケットをしていた妹が、強豪高校の部活に入った途端に、毎日泣いて、「死にたい」と繰り返していたという話。新体操のコーチから受けた体罰や言葉による攻撃で、毎日自殺したいと思いながら高校時代を過ごし、今だに人を信じられず精神的に不安な状態が続いているという元選手の話もありました。

 さらに、体罰を行使する指導者やコーチ、監督よりもひどいのは、実際に自分は手を出さずに、上級生に命じて下級生を殴らせる監督の存在です。子供たちの心にどんな傷を残すかなど考えたこともないのでしょうか。もはや犯罪としかいいようのない、耳を覆いたくなるほどの話ばかりが続くのです。

 テレビ朝日の仕事の他に、これまで様々なスポーツ関連の仕事を委嘱され、「スポーツは楽しいですよ。スポーツから学ぶことはたくさんありますよ」などと語ってきた私としては、もう情けなくて、げんなりというのが正直なところです。

 一体どうしてこのようなことが起きるのでしょう。

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 体罰は日本のものだけではないようです。オーストラリアで体操ナショナルチームの指導をしていた中国人コーチがある時、突然いなくなりました。理由を聞いてみると体罰による解雇でした。また韓国出身のショートトラックスケート米国ナショナルチームコーチが選手たちに訴えられ、これも原因は暴力行為でした。中国、韓国、日本、この三カ国に体罰は多く存在するようです。

 アジアの三カ国に共通することを考えてみると、その一つとして、目上の者の命令には従わなければならないという儒教的なものの考え方があるように思えます。決して越えられない変えられない上下関係です。欧米では、選手がコーチを選ぶ時代に入ってきており、一緒にゴールを目指すパートナーが選手とコーチの関係となってきています。学校の部活動がスポーツの入り口にある日本では、生徒と教師という関係性の中でスポーツが始まるわけですので、欧米のような関係になるのはなかなか難しいところがあるのでしょう。

 二つ目に挙げられるのは、その国にどういう形でスポーツが入ってきたかという点です。中国、韓国、日本には、西洋から始まったスポーツの本来の意味が理解されないまま、軍事訓練の身体教練としてその国に入っいったという共通の歴史もあるでしょう。常に勝つことを目標に訓練されていくものであるという考え方です。

 では、本来のスポーツとは、一体何なのでしょう。

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 スポーツの語源はラテン語のdisportです。持っているものを離す、すなわち、解放される、気晴らしという意味です。スポーツは日常の義務行為から解放されて、人間らしさを回復するというのがスポーツの語源です。ですから、スポーツをするとき、人はそれを楽しみ、そこから生まれる人と人の繋がりを心地よく感じることを大切にします。ゲームで敵となった相手に対し、ゲームが終了してノーサイドとなった時に、互いの健闘をたたえあうのも、「相手がいなければこの楽しい時間を過ごすことができなかった」と感謝の思いを表現している行為なのです。

 36年間、トップアスリートの取材を重ねて、つくづく思うことがあります。鍛錬を重ねていく競技スポーツは、傍からみていると、厳しく辛いものに見えますが、当事者にとってはとても楽しいものなのだそうです。ハンマー投げの室伏広治選手が「スポーツは何にも束縛されない、身体をつかった自由な表現ですから」と答えてくれたときに、とても得心した覚えがあります。自分でハンマーに付けるセンサーを開発し、ハンマーの飛ぶ軌道を計測しながら投げ方を模索したり、赤ちゃんの動きを参考にしてコアトレーニングをしたりと、室伏選手のトレーニングを取材しながら、そこにスポーツの本来の姿を見たような気がしたものです。自分自身で考え、工夫しながら、自分の身体と対話をして競技と向かい合う。スポーツの醍醐味はそこにあるのです。

 スポーツで最も大切なのは、スポーツをする本人、選手です。決して監督、指導者、コーチではありません。日本語でスポーツをする人を表す「選手」という言葉自体、「選ばれた手」という意味ですから、これは監督が選んだ駒という意味を示していることになります。「アスリートファースト」「プレイヤーズファースト」という言葉はようやく日本でも聞かれるようになってきましたが、まだまだ実際に浸透しているとは言えません。この考え方が日本に根付くとき、日本のスポーツが変わるときだと思います。

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 体罰は、監督、コーチや指導者が、自分の思い通りにならない時に発揮する暴力手段です。選手はコーチの操り人形ではありません。選手が自ら考え、工夫できるようにアドバイスをし、より高いパフォーマンスを求める動機づけをしていくのが、本当のコーチの仕事でしょう。手を出したくなった時に、それを止める自制力。なぜ怒ったのかを分析する力。そして分析の結果、どうすれば解決できるかを考え、言葉でアドバイスができる力を付けることが求められているのでしょう。

 指導者、コーチ、監督が変わるだけでなく、システムも見直す必要があるのではないでしょうか。長い間取材をしながらいつも首を傾げていたことがあります。小学生や中学生に全国大会は必要なのでしょうか。地域の大会だけで十分ではないでしょうか。大学の研究者によると、欧州では16歳までの全国大会は行われておらず、日本は異常とのことです。この全国大会が生み出す害は見逃せません。

 小学生のころから地区でトップをめざし、全国大会で優勝をすることを夢見る子どもたち。それをけしかける親、監督、コーチ、指導者たち。子供たちはスポーツに接する最初の段階で、楽しさや面白さを自分たちで感じる前に、一つの競技で「勝つこと」ばかりを教え込まれます。身体の発達に応じて様々なスポーツを楽しみながら、自分に向くベストのスポーツを探すことなどもってのほかです。勝つための小手先の技術が教えこまれ、ジュニア時代はそこそこ強いけど、大人になると、海外選手に負けてしまうのが日本の選手と言われ続けて久しいのです。

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 スポーツって嫌だな!と思う子供たちがいるならば、きっとその原因があるはずです。
子どものころに出会ったスポーツと一生付き合っていけるためにも、まずは、楽しさ面白さを知ってもらい、「アスリートファースト」「プレイヤーズファースト」を監督、コーチ、指導者が実践していく必要があるのでしょう。

 日本のスポーツが、この一連の事件を契機に、大きく変わってくれることを期待して、スポーツを傍から見つめ続けてきた者として、あえて書かせていただきました。
「スポーツは、やる人が主役です」

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