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8月31日 「終戦記念日」〜ちい散歩ブログより〜


生まれ故郷、高知県四万十。何もかも洗われる、青!


四万十川にかかる沈下橋。


提灯祭り。久しぶりの里帰りで心が満たされました。


[ちい散歩]HPでブログを書かせていただくようになってから4ヶ月。
8月は、様々な気持ちの去来する、
濃密な季節だと思います。
去り行く8月を偲び、
こちらのブログ記事を転載させていただきます。


終戦記念日   2010.8.15 ちい散歩HP「萩野志保子のおはなし散歩」掲載


1945年8月15日。

その日から
65年。

平和を祈ることに、
どれだけの実感を
持てているか。

自身に問う
大切な日だと思う。



私の祖父は、
もう既に亡くなっているが、
生前、
大切なことを
伝えてくれていた。

祖父の娘
すなわち私の母は、
1941年(昭和16年)7月に生まれた。
日本が宣戦する
半年前のことだ。

幼い娘(私の母)と別れ
戦場に行った祖父は、
戦後も捕虜として
シベリアに拘留されていた。

故郷に戻ることができたのは
数年後。
幼児だった母が
自分の父親に再会したのは、
小学校も半ばのことということになる。

私が高校生のとき
祖父が見せてくれた写真を私は、
ずっと忘れることができないし、
忘れたくない。


セピア色とは、
イカ墨を乾かした色のことであるが、
その写真は、
まさにそうした風合いだった。

軍服に身を包んだ
若く凛々しい祖父が、
前髪を切り揃えた
おかっぱ頭の幼い母を
膝に抱き、
こちらを強く見つめている。

戦地でも、
捕虜になってからも、
取り上げられないように
ひたすら隠して隠して
持ち続けていた
その写真だと、
祖父は言った。



戦争が残酷だということは
誰もが知っていることだと
思う前提で、
それでも尚
思う。

戦争は
残酷だ。




幼すぎた母にしてみれば、
小学校も半ばになって
いきなりお父さんという人が
帰ってきたことになる。

祖父にしてみれば、
写真を支えに
生きながらえ
やっと帰ったところに、
大きく成長した娘が
いることになる。

母がとまどうのも
無理はない。
別れのそのとき、
母は幼かったのだから、
記憶もおぼろげだったことだろう。
とはいえ、
待ち焦がれていることを
前提にしていたであろう
祖父にとって、
その衝撃は
いかばかりであっただろうか
と思うと、
やりきれない。

戦争が奪うのは、
命だけではない。

暮らしを
時間を
引き裂き
奪う。



長い年月が経ち、
おじいちゃんと母と私が
そうした「昔話」を
共有できる時が来たことは
幸せの形といえるかもしれない。
と思うのは、

伝えられずに
死んでいかなければならなかった
たくさんの人たちが、
たくさんの残された人たちが、
いるからに他ならない。

戦争で命を失った人
大切な人を失った人
のことを改めて思い、

そして、
戦争を経験した
お年寄りの人たちを
敬い大事にできない社会なんて
絶対に嫌だし、
そうであってはならないと、
強く思う。





おじいちゃん。
父も母も私も、
元気にやっています。
ありがとう。

2010年8月15日
萩野志保子


『ナレーター萩野志保子のおはなし散歩』はこちら↓
   
 
    
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