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5月9日 てら散歩  「東海道五十三次」広重のあの絵の場所を訪ねる


48 坂下



阪之下(安藤広重)  
 
筆捨山(亀山市関町市瀬)

絵のタイトルは「筆捨嶺」 東海道から鈴鹿川を挟んで向こうに見える筆捨山を大きく描いています。茶屋で休んでいる旅人達も、荒々しい岩肌と流れ落ちる滝を眺めています。



岩肌がむき出しの筆捨山  
 
現在も広重の絵そのまま

広重がどこからこの絵を描いたのか分らなかったので、近くの【鈴鹿峠自然の家】に集まっていた地元の方達に尋ねてみると… 偶然にも、一人の方が「それはウチのご先祖がやっていた茶店のところから描いたものだよ」という答えが…
「えっホントですか!?」すぐに場所を教えていただき、ついでにちゃっかり家の前まで入っての撮影のお許しもいただきました。
「うーん、ホントにココだった! 絵とそっくりの岩肌が見える!」



筆捨山バス停
 
「亀山市名勝 筆捨山」案内板

近くにあった案内板には次のように書かれていました。


亀山市名勝    筆捨山     昭和五十三年九月二十二日指定

東海道から見ると鈴鹿川を挟んだ対岸に位置する標高289mの山である。
もともと岩根山と呼ばれていたが、室町期の画家狩野法眼元信がこの山を描こうと筆をとり、翌日書き残した分を続けようとしたところ、雲や霞がたちこめ山の姿が全く変わってしまったため書き足すことができず、あきらめて筆を投げ捨てたことからこの名がついたと伝えられる。…浮世絵では山中に滝が描かれるが実際は筆捨山には滝は無く、近在の神大滝や岩屋観音の清滝の印象が盛り込まれているようである。
亀山市教育委員会   


49 土山



土山(安藤広重)
 
海道橋(甲賀市土山町南土山)

絵のタイトルは「春之雨」  雨が強く降り、田村川は水かさが増し勢いよく流れています。そこに架けられた橋にちょうど大名行列がやってきています。 渡った先の森は田村神社です。
今、ここには木造風の素朴な味わいのある橋が架けられています。元々ここには1775年(安永4年)に架けられた田村川木橋がありました。もう少し下流に渡り場がありましたが、大水が出るたびに溺れ死ぬ人が多く出たため、幕府の許可を得て土山宿の人達がお金を集めて橋を架けたのです。この橋は国道1号の完成で取り壊されましたが、2005年(平成17年)に復元され、東海道にちなんで「海道橋」と名付けられました。



海道橋のたもとに高札
 
定 道中奉行

橋のたもとにある高札にはこう書かれているそうです。


     規則(定め書)

この橋を渡ることのできるのは、安永4年(1775年)の閏月12月の23日からである。
(旧暦には閏月があり、この年は12月が2回続く) 
この橋を渡る時、幕府の用で通行する人達や、武家の家族が渡る時は無料である。また、近村に住む百姓達の中、川向うに田畑があり、毎日橋を渡って生活しなければならない人達の渡り賃も無料である。…この規則は一時的なものでなく、橋があるかぎり永遠に続くものである。
道中奉行
(高札の解説板より)


50 水口



水口(安藤広重)
 
三筋の辻広場(甲賀市水口町本町)

絵のタイトルは「名物 干瓢(かんぴょう)」干瓢を干す女性達が描かれています。
水口の干瓢は、桃山時代に水口岡山城主・長束正家が農家に作らせたのが始まりだそうです。現在、干瓢の生産量全国一は栃木県ですが、江戸時代に城主だった鳥居忠英が下野の国(現在の栃木県)壬生城に国替えになってから栃木に伝え、普及したということです。つまり元は水口だったわけです。これが今からちょうど300年前。栃木県では今年、「かんぴょう伝来300年記念」で盛り上がっています。


51 石部



石部(安藤広重)
 
田楽茶屋(湖南市石部西)


絵のタイトルは「目川ノ里」  広重は石部宿から草津宿に向かう途中の目川(めがわ)(現在の栗東市岡)にあった田楽茶屋を描いています。
石部宿の旧東海道沿いに広重の絵を元に再現された茶屋・観光施設を撮影しました。

   
 
    
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