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12月23日 サンスク取材記…追悼、立川談志師匠。インタビュー中に驚くべきことが!?A

前回からの続きです。



『喋りたい』

この文字は先月亡くなった立川談志直筆の、家族との筆談記録である。
今年3月、気管切開手術が行われて以降、談志は声を失った。

「何にもできなくていいから、ひとつ残して欲しかったのは喋ることだったと思う。なのにそれを失った…それは壮絶で、かわいそうだった。」(長女:弓子さん)

納得の上で気管切開し、管を付けたはずだった。喋れなくなっちゃうんだよ?と家族が説明したとき『俺らしくていい』と応じたという。ところが後日『弓子!何で俺は喋れねぇんだ!』と言い出したそうだ。



『クダを取っちゃえ』

そこまで喋れなくなるとは思ってなかったのではないか、そう弓子さんは言う。
驚くべき博覧強記でありながら、誰もが知っているようなことを全く知らないのが談志師匠らしいところで、エアコンのリモコンを操作するたびに娘に電話してくるような人だったそうだ。

『おい、弓子。クーラーいれてえんだけど、なんだこの予約ってのは。俺は何を予約したんだ』

そんなエピソードに事欠かない。電化製品でまともに扱えるのは冷蔵庫の開け閉めぐらいだったね、と弓子さんも父譲りの毒舌だ。だからタンを出すための管のことがよく分かってないらしく、何度も絵に描いたりして説明したそうだ。



ちょっとポストまで

談志師匠ぐらいになると、弟子をアゴで使って細々としたことはやらない…というのは間違ったイメージだ。何でも自分でやることが好きだったという。闘病中もお礼状を書いては「自分でポストに投函する」と言って譲らない。しかし家族にとってはこれが大変。両脇を抱えて、一歩一歩ポストに近づくが、タンが絡んで呼吸困難に。急遽バス停に置いてあった椅子に座って一休み…在宅介護のため、家族も闘っていたのだ。なにしろ患者は超個性的な立川談志だ。
ごみを自分で捨てに行きたいと言い出す、夜中は寝ない、設置したナースコールで数分おきに家族を起こす…。

弟子にも闘病生活を見せることがなかった談志師匠だが「とても人に見せられる状況じゃなかった(弓子さん)」という側面もあったようだ。

このインタビュー中、不思議なことがあった。弓子さんがオーナーをつとめる銀座のクラブ「TeeOff」というお店で午前10時から、つまりお客さんも誰もいない中で行われたのだが、途中で急にラジオのような音が鳴り出して急に止まり、今度は撮影用のモニターが妙な音を出し始めたと思ったら、誰かのいびきをかいている様な荒い息の音が聞こえてきた。誰だ、寝てるのは!と思って私もディレクターも周りを見渡すが、当たり前だがそんな人はいない。と次の瞬間、ペットボトルがパーンと大きな音をだしてカウンターの上から落ちたのだ。

インタビューが終了して、その話になった。あれなんだったんですかね、と。
談志師匠が来てたんじゃないですか、と自称“霊感が強い”ディレクターが一言。
ひえーといいながら弓子さんが「わたしね、パパ、(幽霊になって)早く出てね、って最期の三週間意識不明だったときの父に話しかけてたのよ」と…。

私もアナウンサーとして非科学的なことを軽々に肯定はしませんが、ま、あの談志師匠だから、急に自由になっていろんな所を飛び回ってはイタズラしてるのかもな、と思ったほうが楽しいのでそう思うことにしました。



ああ、わが青春の立川談志。
師匠なくしては今の自分はありませんでした。
本当にありがとうございました。

 

 

 
    
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